2014年4月30日水曜日

「せーしんかのお医者さんなら、教えてくれるよね」



いわゆるリアルと呼ばれる、実生活での話。

実家に帰ったり、親戚づきあいの場に顔を出したりすると、「この前テレビで◯◯さんが、XXという病気になりましたっていってたけれど、アレ、どうなんだい?」みたいなことを聞かれるのは、既にお約束。
ほとんどの場合、ニヤニヤ笑いながら、「はぁ、どうなんでしょうねぇ」的な対応をすることにしている。

ところが、油断していると、芸能人であればまだしも、「近所の◯◯さん」とか、「オレの職場のxxさん」とかの話題になってくる。

「”ぷしこまさん”は、せーしんかのお医者さんだから、わかるでしょう。まぁ、身内なんだし、どうしたらいいか、それくらい教えてくれるのが当然だよね」
と言わんばかりの態度で、普段こんなことをしているとか、相手の方はあんなことを言っているとか、色々と情報提供すらしてくれる。

それでも、やっぱり、ぷしこまさんは、「ニヤニヤしている」。というか、そうするしかない。


Smile / Alan Cleaver


こんな状況で、「◯◯病みたいだから、受診したほうがいいでしょうね」なんて、ポロッと言ってしまったら、後々どうなるか、わかったものではない。
いや、むしろ、尾ひれの生え方くらいは想像できる。
「オレの親類の、せーしんかの先生に話したら、やっぱりビョーキだから、こうした方がいい。オレだけが言ってるんじゃなくて、お医者さんがそう言ってるんだから間違いない」
それくらいのことは、平気で口にするはず。そう言いたくなるのも、理解はできるけどね。

「ニヤニヤ」したせいで、身内の集まりという、場の雰囲気がよろしくなくなったことも、何回かある。まぁ、そんなことは知ったこっちゃない。
せーしんかの先生は、大抵変わり者だと相場が決まっている

私のリアルな生活の人間関係はさておき、
TwitterやFacebookのようなSNSの場では、医療アカウントに対して、「オレの知っている、えらーい、お医者さん」と思っている人は、予想以上にいるんじゃないかしらん。
だから、特に具体的な診断とか治療については、そういった存在についても意識することが必要じゃないかと、やっぱり思うんだよね。


まぁ、そこまで堅苦しく、考えなくてもいいんじゃないという意見も認める
そこは、まぁ許して欲しい。
あいつはちょっと変わり者だと身内にも思われている、”せーしんかの先生”なもので





2014年4月23日水曜日

おいしくご飯たべられていますか?


特にTwitterを使う人のほとんどにとって、SNSというのは、「あくまでも、個人の感想です」の表明の場

自分も、それを分かっているつもり。
そうなんだけれど、時として意図的に、時としてネタとして、「あくまでも……」というフレーズを入れてしまう。それくらい「個人の感想」というスタンスは忘れ去られがち。

もう一つ忘れ去られていることがある。
それは、「個人の感想」を表明するのであれば、他人のそれも認めていないといけないということ。当たり前の話なんだけれど。

時々目についてしまうのが、「俺の感想は、◯◯といったもので、これは正しい。お前の感想は、◯◯ではない。それは間違っている」っていう展開。時には、暴力的なものも。
これって、新手のジャイアニズムと言えばいいのかしらん。


CEO Face / rogerimp


元々「正義」とか、「正しい」といった価値観は、all or nothingというか、二者択一というか、とにかく単純な結論にたどり着きやすい。だから、「個人の感想」とは、相性が悪いはず。
ところが、「正義」は、おそろしい魅力を持っている。誰もがそれを使いたくなってしまう。
取り扱い注意のモノなのに。

「正義」と「個人の感想」を混ぜ合わせた結果できたモノって、ものすごく窮屈なものになってしまう。
窮屈なものを自分の頭の中で考えていると、自分の気持ちも窮屈になってくる。
そういったストレスは、頭の中のどこかで感じて、気持ちも苦しくなりがち。
でも、哀しいかな、人間って、こういったストレスには、かなり鈍感だったりする。

そんなストレスが溜まるような行為は、当然メンタルヘルスとしても、よろしくない。
だったら、どうするか。

「本当に気持ちがよい」と感じるように、考え方や心を持っていくことが解決方法の一つ。自分の考え方や心のあり方を意識的に見つめ直すことで、それはできるようになる。
これ、大切だよ。

意識的に見つめ直すやり方は、色々ある。
「本当に、自分が楽しいか」という問いかけは、上手なやり方の一つだと思うので、割りとおすすめ。

どこか、自分の気持ちがおかしいかなぁと思ったら、「最近、自分って楽しいこと、気持ちの良いことをやっていたかなぁ。そういうこと考えていたかなぁ」と振り返ってみたらいいかもね。



PhoTones Works #115 / PhoTones_TAKUMA


そんなことをヤンデル先生のツイートを読み返したり、書き写しながら考えてました。




2014年4月9日水曜日

マイ診断基準を作り上げよう

統合失調症でも、感情障害でもいいけれど、「この病気の本質は、◯◯である」という自分なりの診断基準
精神科臨床のレベルを上げるためには、これが必要になるんじゃないかと思っている。

こういった”マイ診断基準”を持っていると、治療の説明が変わってくる。
教科書やパンフレットの記述をそのまま読み上がるのではなく、患者さんや家族に応じて、患者さんの疾患について、「自分の言葉」で説明することができる。
「自分の言葉」による説明は、臨床の場面では、強い説得力があると信じている

”マイ診断基準”は、実際の治療経験の中で作り上げるしかない。
治療の中で、自分の頭で考えたり、身体で感じたりしたこと。そういうものが、診断基準を作り上げるための材料になる。ということは、自分自身を観察したり、思考を見なおしたりすることになる。
それなりに大変な作業になるはずだけれど、それはしかたがない。



一方、初期研修などで短期間だけ精神科を学ぶのであれば、素直にICDやDSMといった「操作的診断基準」を中心に考えるべき。
そういった医療者に求められるのは、「操作的診断基準」という共通言語に慣れることだから。共通言語は失敗の少ないスタンダードな治療を行うためにある。むしろ、乏しい経験にもかかわらず、疾患について分かったような気持ちで、治療的な振る舞いをすることのほうが問題。



Shot 4 / Indenture


”マイ診断基準”と「操作的診断基準」の二本立てで、診断を考える。
これはこれで、いろいろと悩むことが増えることになる。ただ、その悩みが精神科臨床の能力を鍛えてくれて、「面白いもの」だと思っている。