2014年10月23日木曜日

感情の保留

下のリンクは、ディベートに関するツイートをヤンデル先生がまとめたもの。

おのれディベィトォ!! - Togetterまとめ:
‘via Blog this’
この画像はpsykomaが勝手につけたものであって、上記リンクの内容とは関係ありません。


「ディベート」の授業みたいなので面白いのは、「自分の反対の意見の立場に立って理論を構築する」ところじゃないかしらん。
「相手を議論で打ち負かす」よりも、「一旦感情を他所において、理論で考える」練習をすることがポイント。

精神科の患者さんが疎まれることがある理由

哀しいかな、「精神科の患者さんは、わけのわからないことを言うから、相手にしたくない」と考える医療者は少なからずいる。
これは、「わけのわからないこと」を言われたことに対する感情が、その後に続くべき思考よりも優先されてしまっていることが、理由じゃないかと。

精神科医の自分は、どうなのか

確かに、病状によっては、患者さんが「わけのわからない」内容を言ってくることもある。困惑を主体としたネガティブな感情が起こりそうになることも時にはある。  

そういった時には、その感情を一旦保留する。
そして、「じゃあ、何故そんな状態になっているのか」という方向で、相手の言動を観察する。
観察した相手の状態を考察をしていく。
考察に基づいて適切だと思う対応をする。

こういった流れが、精神科医療だと思う。
  
なんて言っているけれど、「精神科」だけじゃなく、どんな場合にも当てはまる「当たり前の治療」の過程なんだよね。  
本当は。

じゃあ、どうすればいいのか

やっぱり、目の前の現象から引き起こされる感情に引っ張られて、思考を振りまわされないことに注意する。
これが大切なんだよね。



"Reservoir Dogs" debate, 3 in the morning / LaVladina


Written with StackEdit.

2014年10月21日火曜日

最近、ちょっと気になっているアカウントのツイート


少し前から、ちょっとチェックしているエンバーマーの人の連続ツイート。




エンバーマーという職業に対して抱いているアイデンティのようなものを、じわじわと感じる。

こういうツイート、好きなんですよね。


Roy's Funeral / wickenden


2014年10月20日月曜日

見え隠れする「見識」



「ヨルタモリ」良かったよ

『ヨルタモリ』 - とれたてフジテレビ:
'via Blog this'

昨日から始まった、タモリの新番組「ヨルタモリ」。
自分的には、わりとツボにはまって、面白く見ていた。若い人が、これを見て面白いと思えるかというと、疑問符がつくけれど。

「今夜は最高!」をリアルで見ていた記憶はある。
でも、正直ものすごく面白いとは思わなかったし、「変なことをする、面白いのか、面白くないのか、微妙な人」というのが、当時のタモリに対する認識だった。

まぁ、そんなものだ。


「ヨルタモリ」は、垣間見える「見識」を楽しんでいくつもり。

「ヨルタモリ」のコンテンツの一つは、フリートーク。
フリートークは、ある種の見識がある人がやると面白い。

宮沢りえというキャスティングが、大正解。当然トークなれはしていないのだが、それでも、トークの端々にアドリブ何だかよくわからない形で垣間見える、宮沢りえの「見識」が面白かった

市井の面白いおっさんといえば、最近では友近だったけれど……

市井の面白い人を見つけ出して、動作や口調のパターンを抽出して、それを適度にデフォルメしていくのが、友近の芸の一つ。
タモリは、そこに「面白い人のフォーマット」に合わせた自分の見識をチラチラ入れていく。だから、タモリの芸は、幅が広い。
最近は、この手の芸を見せるのは、徹子の部屋でしかなかったはず。

しばらくは、追いかけようと思ってますよ

「今夜は最高!」をちょっと見ていた自分と、「ヨルタモリ」を見ている自分の違いは、他人の「見識」って面白いと思えるようになったということ。
これから、どうなるのか、どれくらい続けていくのかわからないけれど、まぁ、見ていこうかなぁと思ってます。



ちなみに、「見識」を楽しむという意味では、Twitterもそうなんだけどね




2014年10月16日木曜日

「弱く見える」




特殊な医学理論の提唱者に対して、粘り強く各個撃破する戦略自体はアリ。
ただ、戦術的には「否定合戦」とならざるを得ず、結果的に、こちら側が「過剰な表現による『否定』」を世間に振りまいてしまう
それは、あまりにも大きすぎるリスクじゃないかしらん。


つまり、「正論」に対する「異論」を否定しようと思えば、「過剰な否定」になりがち

ところが、それを見ている第三者は、「必死になって否定している」、「あんなに攻撃的なのには裏がある」といった印象をいだきかねない。

そうなると、「異論」の方がブレなくて、安定している姿勢で対応しているように見えちゃう。
結果として、「異論のほうが正しそうに見えてしまう」。


端的に言えば、これ。


「弱く見えたら」、正しいことを言っていても勝ちにくい
勝ち負けを判定するのは、やっぱり「世間」であるわけだし。

このリスクを回避しながら、各個撃破の戦略を維持していくのは、ものすごく手間がかかりそう。

他の戦略を考えたいなぁと思ってしまうんだよね。


Considering / quinn.anya

2014年10月15日水曜日

「主体性」を育てるもの

主体性を育てられるかというヤンデル先生のツイート


このツイートを見て、テキトーに考えてみたこと

依存症の治療にも似ているなぁと思ったり
依存症の患者さんを治療する時、疾患に対する教育的な情報提供や治療方法の提示をすることはできても、治療がどうなっていくのかは、最終的には当人の主体性に基づくわけで……


アルコール依存症の治療でよく出てくるのは、当人の「底付き体験」が必要であるという考え方。 
 
主体性を育てるには、一種の「底つき感」がなければ難しいのかも。  
ということは、主体性のコントロールは、「底付き感」のコントロールと考えてみてもいいのかしらん。



Creative Company Conference 2011 / Sebastiaan ter Burg
Written with StackEdit.

「正しさ」の運用

不眠症の治療はすれ違う

不眠症治療の本質を「適切な睡眠がとれるように、生活を改善すること」にするのは、間違いではない。
でも、「とりあえず、睡眠に満足感を得たい」と思っている人のほうが多数派。
この「すれ違い」をどう処理するのか。本当は、そこがポイント。


「正しさ」の運用

誰かどう考えても「正しい」ことを実行できないからこその人間。「正しいこと」との折り合いの付け方とか、ちょっとあきらめることへの納得のさせ方とか、そういったものって大切。  
ところが、「正しいこと」を突き詰めさせたり、「正しくしてない」ことを単純に責めたりする人がいるのが、何とも。

「正しさ」って、わりと限定した範囲の中でしか成立しない。
広い世の中では様々な「正しさ」が存在する。
必要なのは、自分の「正しさ」を適応させることではなくて、それぞれの「正しさ」を認めて、妥協点を見つけることなんだよなぁ。



Sleeping / xlibber
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2014年10月10日金曜日

アンビバレントなもの

こんなツイートがありまして

これに対する、一個人精神科医の感想

統合失調症の場合、「アンビバレントな感情」があるのではなくて、「アンビバレントな思考」が本質
バラバラな思考のそれぞれに感情が付随してくるので、一見すると「アンビバレントな感情」が生じているという解釈なんだがなぁ。  
ザックリし過ぎなんだけれど、「アンビバレントな感情に対して、むりやり「屁理屈」を通してくるのがパーソナリティ障害」という感覚。  
「屁理屈」というと語感は悪いけれど、だいたい人間の思考って「屁理屈」なもの。ここは注意が必要。
  
「屁理屈」をどれくらい受容できるか。これは個人差があるわけで、なかなか基準が難しい。  
「屁理屈」の一つの進化型が「妄想」であったりする。だから、観察者の「屁理屈」に対する感覚が違いすぎると、ちょっと癖のある「屁理屈」が「妄想」と解釈されて、統合失調症なんて判断されたりすることも。
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2014年10月9日木曜日

なんとも言えないもどかしさ 「コウノドリ」マタニティブルー編

漫画「コウノドリ」 マタニティブルー編

週刊モーニングで連載中の「コウノドリ」。産婦人科を舞台にして、質実剛健といえるストーリーが展開している漫画です。
平成26年10月9日現在は、「マタニティブルー」編の連載中。
今週の「コウノドリ」 「マタニティブルー」第2話。
いわゆる「マタニティブルー」の母親に対する主人公の産婦人科医の対応が、実に興味深い。というか、何とも言えないもどかしさが……


主人公が自分にコンサルとしてきたら……

同じ施設内に勤務していて、精神科に紹介されたとしたら、
「わかりました。それにしても、先生、さすがですねぇ。産婦人科にしておくのは、もったいない。こっちにくるつもりはありませんか?」なんて、わりと本気で言ったりするかも。


他の精神科医の症例として話を聞いたら……

他の精神科医から、自分の経験している症例として話を聞いたとしたら、
「なるほど。こういう場合は、こうなっちゃうこともありますよね。先生も、大変ですよねぇ」みたいな対応をするかもしれない。


指導している若手精神科医の対応だとしたら……

自分が指導している若手が、こういった対応をしてたら
「抑うつについて、注意しながら対応しているのか。自分のやったことを振りかえって、どこが上手くなかったのか、少しは考えてみた方がいい」と説教するかも。



Written with StackEdit.

今後に注目

まだ「マタニティブルー」編のエピソードは途中なので、今後どうなる展開になるのか。
それによっては、この感想も、また変わっていくのかもしれません。精神科医として色々と考えながら読んでいくことになりそうです。
やっぱり、「抑うつ」への対応は難しい……

2014年10月8日水曜日

「労り」

抑うつ状態の人に、どうやって関わるのか

抑うつ状態の患者さんと関わる時、「『労る』にはどうすれば良いか?」という視点から考えるようにしている。
世間でよく知られている「『頑張って』と励まさない」という視点。これでは、「実は複雑な抑うつ」への対応は難しい。


An old silk-worker (now unable to work) living on earnings of a roomer, March 1937 / The U.S. National Archives


「労る」って、何ですか?

もちろん、「労る」というのも難しい。
昔、「労る」とツイートしたら、「「労る」って、何て読むんですか?」という質問があったくらい難しい。
冗談はさておき、読める人でも「労る」という言葉について、きちんと辞書をひいてみることをお勧めする。なかなか面白い。


「労る」ために必要なもの

「労る」ためには、その人となりを理解していないと難しい。
ということは、ずっと生活を共にしてきた家族が、一番「労り」やすかったりする。
でも、近すぎて見えていなかったり、「労る」という視点が無かったりで、実際に実行するのは難しい。
だから、患者さんや家族と関わりながら、「何を労るのか」というテーマで診ていくことになる。

Care in the home / British Red Cross.


「励まさない」ことの功罪

もしかしたら、「心の風邪」よりも、「頑張れと励まさない」というフレーズのほうが、話をややこしくしちゃったんじゃないだろうかと思えてきた。
「わかりやすいフレーズ」は大切で便利だけれど、便利なものにはリスクが伴うんだなぁと、再認識。

2014年10月3日金曜日

「必ず本当でもない」



双極性障害の(軽)躁状態の患者さん。
この状態では「聴き応えのある」訴えが色々と出てくる。でも、こういった時の訴えは、「必ず嘘ではない けれど必ず本当でもない」

むしろ、「そういった訴えをするのは、どうしてだろう」と思いながら、患者さんを診ている。

「必ず嘘ではない けれど必ず本当でもない」というフレーズは、さだまさしの名曲「まほろば」にあるもの。そういった患者の診察をする度に、脳内再生される。


2014年10月2日木曜日

「正しくて隙のないハードSF」のような……


「この薬を飲んでも、副作用はありませんよね」と聞かれると、結構困ってしまう。

もちろん、「細かいことを考えなくても、まぁ大丈夫」式の答えを即答するのが正解

自分は、ここで「より正しい」返答を考えてしまう。その結果、下手くそな対応になって、話をややこしくしてしまう……

「正しい」説明は、相手にも「リスクも一緒に引き受けましょうね」という覚悟を求めてしまう
ところが、相手が求めているのは「覚悟」ではなくて「安心」。「安心」の基板は、「心地よさ」にある。

「心地やすさ」の正反対である「正しいことの厳しさ」を突きつけられると、当然戸惑いが生じる。

場合によっては、「正しいことの厳しさ」を緩和するために、「厳しさを受け入れるための」ストーリーを作る人も少なくない。説明を聞いたあと、時間をかけて、説明の内容をそのストーリーに合わせた脚色をしていく。
そうなるといつの間にか、説明する側とされる側の理解が、まったくの別物になったりする。

最適解は、ちょっと聞いた感じでは心地よさそうな、でも「本当は恐ろしい寓話」のようなストーリーを提示すること。とはいっても、そんな宮﨑駿作品レベルのストーリーを咄嗟に作り上げるのは、常人には至難の業。



更に、後出しジャンケンで勝ちにくる批評家が出現することを考えると、「正しくて隙のないハードSF」のようなストーリーにするのが安全策になってしまう。

「隙のない正しさ」に親和性がある自分は、「より正しく」答えてしまう。だから、ダメなんだろうね。やれやれ。





2014年9月26日金曜日

限界の設定


治療における「限界設定」

治療者が必要以上に消耗していかないため。
患者側が、治療に対して幻想を抱き続けたり、誇大化し続けないようにしたりするため。
そういった目的で運用するのが、「限界設定」だという感覚でいる。
治療を拒否するという限られた一面だけ取り上げられることも多いんだけどね。


Stop Sign / Rubber Dragon


「釣り上げた魚に餌はやらない」とはいうが、釣り上げる前と釣り上げてからは、関係性が違ったものになる。そうなると「餌の与え方・与えられ方」も変わってくるはず。

ところが、関係性の変化や、関係性自体を認識していないと、「私が欲しかった餌」だけが、どんどんと幻想化していく。場合によっては、「欲しかった餌」だけではなく、「上手く釣れるような餌の与え方」までもが、幻想化していく

そして、現実が現象に侵食されていく。最終的には、どちらかの現実が破綻したところで、関係性が終焉してしまう。

こういった結末にならないためには、「ここまでは、現実の話」、「ここから先は、幻想の世界」という境界線を提示しないといけない。
それが、「限界の設定」
境界線の設定は重要。現実だけでも、幻想だけでも、生きていくには辛すぎる場合の話だから。


photo-20140726-3 / umezy12

治療の話だけではなくて、こういった「釣られた魚」と「釣ってあげる人」との関係は色々なところにあるんだろうね。
実際は。

2014年9月25日木曜日

精神科医療の矜持


「変なことを言うから、精神疾患」、「あいつの言動は世間に迷惑をかけている。精神科で治療してもらった方がいい」という安易な判断をする医療者は、珍しくない。

逆に、それだからこそ、精神科医療を志す人は、ある種の矜持を持って治療的な判断をすることが必要じゃないかしらん。

そういった姿勢が、他の領域に対してのリスペクトにもつながると思う。



Notebooks / colinlogan



突飛な発想でも、許しがたい思考の内容でも、病的でない思考過程の範囲での結果であれば、それは精神科治療の対象でないとは考える。

少し変だなと思える程度の内容であっても、内因性精神疾患の影響があると思えば、医療による改善が望めないかと考える。

精神科医療って、そういうものだと思っている。


この二つの違いを見極めることは難しい。内因性精神疾患なのかどうか、確たる客観的に評価するものが乏しいからだ。

それでも、治療するべき対象をしっかり見極めることが、精神科医療にとっては大切なことじゃないかしらん。

こういった考え方は、それぞれの治療分野で存在しているはず。
精神科領域には限らないか……



2014年9月24日水曜日

「ゼロリスクの治療」と「正しさ」と


「ゼロリスクの治療を受けることが当たり前」
これを前提として、治療側に要望を続けると、逆に治療の多様性や確実性は下がっていくんじゃないかしらん。
もちろん、一般論として適応できないことも多い話。


「この病気が治らないのは、先生の治療が間違っているんじゃないですか」
「この薬を飲んだら副作用が出てきた。先生の治療が間違っているんじゃないですか」
という疑問を持ったり、不安をいだいたりすることは否定しない。
でも、そういった言葉を医療側に提示する時には、確認とか準備とか手続きとか、そういった運用について、十分に考慮したほうがいい



WRONG 33. If you photograph a double portrait, it is better to ask each person to stand next to each other. / Vacacion


一方で、こちらはどうすればよいのか。
「ゼロリスクの治療はありえない」という説明をするよりも、「リスクの説明をされたけれど、ゼロリスクのように感じる」説明をする。
その方が、現実的には有効なんだろうね。
この場合、「正しさ」との折り合いの付け方が難しい。折り合うの付け方は、説明する側、される側の双方に、異なる折り合いの付け方が要求されるから、話がややこしくなるんだけどね。


2014年9月23日火曜日

「今日は何の日」 万年筆の日


……、博物月報さんに怒られるかもしれない。


9月23日は、「万年筆の日」だそうで。

TwitterのTLでも、こんなツイートが。



9月23日が「万年筆の日」の理由は?
と考えて、パッとひらめいたのが、こちら。


「はっぱふみふみ」だから、「ふみ」で23日なのか!


じゃあ、9月は?

…………、google先生に聞いてみます……

ググった結果、”今日は何の日~毎日が記念日~”というサイトで見つけました。
万年筆の日
1809年のこの日、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが金属製の軸内にインクを貯蔵できる筆記具を考案し、特許をとった。
ということだそうです。

大橋巨泉、関係無かったね……






2014年9月12日金曜日

自分を認める

依存症とか、児童とか、認知症とか、専門分野を定めて治療の努力をしている医療者には、当然のように尊敬するべきスキルがある。
もちろん、民間精神病院のようなところで、様々な病態や生活背景を持つ患者さんを相手に治療する人にも、尊敬すべきスキルがある。
どちらのスキルも、同列に語られるべきものなんだよね

その一方で、「市中の治療では、不十分な治療が……」とか、「専門的な治療をするところは、最初に選別をしている……」といった感じで、相手のスキルを非難するような言説も、ネット上ではしばしば見かける。
どっちが上でも下でも無いのにね。

こういう仕事をやっていると、同じ職種でも、ちょっと違ったことをしている人間のほうが、妙に上手くやっているように思えることは少なくない。
これって、一種の「認知の歪み」なんだろうけれど

しんどい時には、認知は歪みやすくなる。
だから、そんな時には、自分自身を認めることに力を注ぐ。そっちのほうが良さそうだ。
「自分自身を認める」作業って、そこそこ難しい。普段から、そのスキルを磨く必要もありそう。



Happy couple / pedrosimoes7



他人に対して、ネガティブな行動をとると、気持ちが軽くなりやすいのは間違いないんだけれど、妙なカルマが付きそうなんだよね。特にネットの上ではカルマを集めるのは簡単だから、注意が必要。

まぁ、プロフェッショナルなんだから、自分を高める方向に努力していくことが大切なんじゃないかな
多分、最後には、気持ちよくなるんじゃないかな。こういう気持ちよさって、絶対他人にも通じて評価してもらえると思う。

2014年8月21日木曜日

氷水をかぶる人とかぶらない人と

難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)への活動を寄付を募るために、最近よく見かけるようになったのが、Ice Bucket Challengeという活動。

海外のセレブなどが参加して、動画をアップしている。
以下のリンクは、NAVERまとめのリンク先。有名人の動画がまとめられている。
ALS Ice Bucket Challenge


最近は日本の有名人の参加動画がアップされている。

その流れの中で、武井荘さんが、こんなツイートをしている。 


それに対するヤンデル先生のツイートが、以下の通り。




武井壮さんのツイート、ヤンデル先生の見解に、ものすごく納得。

こういった企画は、まずは世間の人に対してアクションを仕掛けることが第一の目的。
より効率的に行うのなら、海外でのセレブ、日本でのタレント・芸能人が実行するのが一番。

じゃあ、セレブでもなく、知名度もない自分のような人間は、「こういったアクションに対して、どうすれば良いのか」ということを考えないとね
そして、できたら、考えた結果に基づいて、些細な事でも行動する。
そういうことじゃないかしらん。

安易にイベントを批判しちゃうと、大元の大切な問題まで批判することになりかねないから、注意が必要なんだよね。
きっと。


ということで、このイベントから、ふと気になってALS関係のネット上の記事をググって、面白かったのが、こちら。


地球で生きる宇宙飛行士――『宇宙兄弟』はなぜALSを描いたのか? 川口有美子×佐渡島庸平


漫画「宇宙兄弟」を知っていれば、より考えさせられる。
そうでなくても、ALSの患者さんについて、少し角度の違った視点で考えることができるようになる、非常に面白い内容でした。

よろしければ、ぜひ一読を。


追記

武井壮さんは、色々なことが「わかっている」人だなぁという印象です。
自分は、この動画がお気に入りの一つです。




2014年8月13日水曜日

どんな手段を使っても、コントロール出来たら勝ち


いつものヤンデル先生のツイート。

上記ツイートから始まる連続ツイートをまとめられているのが、次のリンク。

病理医ヤンデル先生による「アレルギーと免疫について」

「アレルギー」について、ヤンデル先生らしい切れ味のある説明。アレルギーのことを、わかっているつもりでも、ちょっと読んでみて損はない。
「アレルギーと免疫とステロイドって、一体どんな関係?」と聞かれると、相手によっては、なかなか説明が難しくなってしまう時がある。こういった切り口があるというのを知っていると、引き出しが一つ増えることになる。


「元々人間の体に備わっているシステムは、害がない。それを外部から操作するのは、問題がある」と信じ込みすぎると、落とし穴にはまりやすくなる

”コントロール不良に陥ったシステム”が問題になる病態がある。これに対しては、外部からの手助けを加えたほうが良い場合もある。


binaural-beat-digital-drug / digitalbob8

精神科でいえば、統合失調症に対する薬物療法が、それにあたる。
統合失調症の症状を陽性症状、陰性症状と分類することもある。これは、突然症状が現れたり、無くなったりするという意味ではない。
元々備わっている能力が、過剰に働いたり、上手く機能しなくなったりした状態と考えたほうがいい。つまり、脳の働きがコントロール不良になっていると考えてもいいだろう
実際の診療やスタッフなどへの教育の場面でも、そう説明している。
そこで、脳の働きを上手くコントロールできるようになるために、薬物療法として抗精神病薬を使う
自分も正直言って、抗精神病薬を使えば、どんな統合失調症の患者さんでも、症状が上手くコントロールできるとは思っていない。
でも、薬を使わずに、患者さん自身に「自分の力で、症状を抑えこんでみせろ」とは言えない。
だから、考えられる範囲でベストの薬の使い方を考える

その薬物療法を受け入れる決断するのは誰かといえば、患者さんと、その近しい人になる。治療は、患者さんのためであり、もう少し範囲を広げると、その近しい人のためになされるべきだから。

だから、最後になされた決断に、異論を挟むことはしない。それまでに、十分に意図を伝える努力が問われるだけなんだよね。




2014年8月11日月曜日

世にでるためには、戦略が必要



Twitterにおいても、アカウントのキャラの作り方は大切。特に公式のアカウントの人なんか、そうじゃないかと思う。
注意するべきは、短期間で人の注目を集めることを意識し過ぎること(炎上狙いは、論外)。場合によっては、その後の展開で苦労することもあるんじゃないかと。



「アナ雪」のエンディングを歌っている人が、今それで苦労しているような気がする。
「歌唱力があるから、多くの人に注目されれば、本人の実力が認められて売れるはず」という売る側には、そういった戦略があったように思える。
映画の主題歌は、これ以上無い素晴らしい一手だった。でも、その前の手順は悪手だった
「カラオケで高得点が出せる」というのは、「楽譜通りに、間違えずに歌うことができる」と解釈されて、「=歌が上手い」となりにくいし、「感動を与えられることは、別」というイメージも強い。

そうはいっても、映画の大ヒットで、主題歌として、ヒットすることができた。
しかし、あの曲自体も、「劇中歌」と「エンディング」では意味合いが異なることを解釈しないといけない、わりと立ち位置が難しい存在。おまけに「劇中歌」の評価も高いもの。
だからこそ、一旦微妙な評価がつき始めると、世間の評価のコントロールが余計に難しくなってしまった。

加えて、「感動」というキーワードがついて回ると、大衆は「それに相応しいストーリー」を求めるようになる。そうなると、直前の「カラオケの高得点」等の材料は、感動のストーリーとの相性が悪すぎる。
このあたりは、歌い手の責任ではないし、知名度がなければ大役も与えられなかっただろうから、どうしようもない部分があるけれど。


だから、売り出し側がヒットの直後からマイナスのイメージを払拭する対応を打ち出す必要があったはず。でも、安易にヒットに浮かれて、無策のままプロモーションしていたのが残念

世にでるためには、地道な努力か、先まで見越した戦略や対応か、その両方か、必要というわけだ。


facebook / English106


今は、誰もが当たり前のようにSNSを使う。SNSを使うということは、少なからず「世にでる」ということ。
でも、大抵の人は、そんなことを意識していない。まぁ、それでもいい。そういう時代だ。
ただ、多くの人に注目されたいという気持ちがあるのなら、多少は考えるものがあったほうがいいのかも。



2014年8月4日月曜日

「嘘でもポジティブ」、「悪い友達はダメ」



これを見て、ちょっと思ったこと。

前に「Facebookでいいね!をもらうために、パンか何かを買いに行く広告」というものがネタになっていた。
目的の勘違いが起こりやすいことに注意をすれば、SNSで得られる評価を、何かの行動を起こすきっかけにするのは悪くはない




ポジティブな行動をとるために、SNSという手段は便利な道具だ。
ただし、注意しておくべきポイントは、大きく二つ。

自分が必ずポジティブに使うこと

友達付き合いには気をつけること


ポジティブになることが目的。だから、少しでもいいから、嘘でもいいからポジティブに振る舞う
ちょっとでも、ネガティブな思いを外に出してしまったら、あっと言う間に暗黒面に堕ちる。それくらいの覚悟は必要。


友達付き合いに気をつけるというのは、「孟母三遷の教え」って言い換えてもいいかも。
自分が作り出している環境が、自分にとってどんなものなのか、きちんと判断することが大切。
「悪い友達と付き合っちゃダメ」という母ちゃんのセリフは、今の時代になって、ようやく正しい言葉になってきたのかもしれない。



2014年7月13日日曜日

敵が増えても、心強い味方を増やすことは大切



最近、川崎市の小児科医が、自分の病院のホームページで精神障害者グループホーム反対署名運動をしたので、話題になった件について。

事件(?)のあらましとかは、下記に引用したツイートのリンク先を読めば、必要十分に理解できます。
必要以上に攻撃的になることもないけれど、こういったことも現実問題としてあるんだよ、ということは、世間一般に知ってほしいものです。。


ところで、この障害者グループホーム側は、ブログでもいいし、Facebook(ページ)でもいい、ツイッターでもいい、何らかの情報発信をしていれば、少しは違う状況になったはず
何だか、惜しいなぁという気持ちで見ていました。

もちろん、この手の問題では、情報発信をすれば、間違いなく反対する人は増えます
これも現実です。

でも、反対する人よりは少ないけれど、応援してくれる人も増えます
これも現実です。

そして、情報発信をすることによって、「質の良い」応援者を得る可能性が高い。これがポイントです。

この可能性を少しでも高くするには、「情報発信の質を高めること」が大切。
一時の注目を集めるためのセンセーショナルなものではなくて、時間をかけて少しずつ積み上げていくことから生まれるものではないかと。

今回の問題だけじゃなくて、他のことにも当てはまることだと思っています。







2014年6月18日水曜日

”精神科医っぽい”雰囲気って


処方箋と違う薬渡した薬剤師を業務停止処分 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE):
'via Blog this'


「体に優しい漢方薬の方がいいと判断してしまった。法に違反したことは反省している」なんて主張されても……



薬剤師の人が努力している方向性って、どこか独特なものがあるなぁと、調剤薬局を利用すると、時々思う。
職種の特性から生まれてくるはずなのだけれど、それが何か、自分の中でも十分に理解できていない……

ここ最近の自分のTwitterのTL。
心理の人達が、資格について、様々な意見をツイートしていた。一連の討論を見ていても、やはり独特の雰囲気のようなものが感じ取れた。

多分、他のアカウントから見たら、自分を含めた精神科医のツイートというのは、”精神科医っぽい”独特の雰囲気があるように思われているはず。

それぞれの職種が持っている、独特のメンタリティというか、パーソナリティというか、雰囲気というか、そういったものは職種ごとに何となく存在しているはず。
その把握しがたいモノをどれだけ認識しているか。他職種の人と関わる時に、上手にできるかどうかのポイントは、そこにあるような気がする。

2014年6月9日月曜日

おままごとが苦手な人




あぁ、これは本当に納得できる。自分のこととして納得できるww

ここから、コミュニケーションの在り方を考えていくのは、十分ありだよなぁ。

少しでも安くしようとする人は……


チラシやら口コミやらの情報をもとにして、あちこちのスーパーをハシゴして、安売り商品を買いあさってきた主婦。
仕事を終えて家に帰ってきた旦那さんが、奥さんから買い物の自慢話を聞かされる。
頭のなかで簡単に計算した旦那さんが、「それ、ほとんど得になっていないから。交通費とか、その手間の時間を考えたら、むしろ赤字だよ!」
旦那さんが、そう答えた日には、ほぼ間違いなく、家庭は内戦状態に陥る。


サミットで買い物 / monoooki


安売り商品を求めての奮闘記を話した奥さんが認めて欲しいのは、家計でプラスになった金額よりも、安い情報を仕入れてきた「賢さ」なのかもしれない。
より広い視点からの経済的な収支計算という手段で批判された奥さんは、自分の「賢さ」を否定されたように感じる
「大切に思っているものは何か」という価値観のすれ違いを旦那が認識しないと、内戦状態を解決する妥協点を見つけることが難しくなる。

チラシを見比べて、安い商品を見つけるテクニックを教えた「テレビや雑誌の経済評論家なんて間違っているから」式の批判も、筋が悪い
その評論家の情報を見つけ出したという「賢さ」の否定になるから

内戦状態の当事者同士が、同じテーブルで話をするには、話題となっている価値観を確認することが大切。
そこがすれ違ったままで話し合いをしても、不公平感とか、ずるさとか、そういったゴチャゴチャした感情とか、そういったものが生産されるだけになる。そして、解決策が更に遠のいてしまう。

こういった状況下で、旦那さんが、ウソでもいいから「お前は、家のために頑張ってくれているんだなぁ。ありがとう」と口にするだけで、状況が改善することが多いのは、そういうことだ。このカードは、問題が複雑化する前に早めに切り出すことが大切。

「お薬手帳断ろう、20円安く」 Twitterで情報拡散 薬局などは有用性PR (1/2) - ITmedia ニュース:
'via Blog this'
「こうやったら、薬局での支払いは、お安くなるんですよね」
診察の最後に外来患者さんが、こんなセリフを口にしたら、どう答えたら良いのか、色々と考えてみた。
「あら、そういうことをよく知っていますね。お詳しいですね」という返し方が正解に近いんだろうなというのが、自分の結論。
ただ、分かっていても、それができるかどうか。色々と正しさを考えちゃう自分には、自信がない……。

自信はないんだけれど、そこをコントロールするのも、理性の力に頼らないといけないはず。
「智に働けば角が立つ」んだろうけれど、その立ってしまった角を削ったり、上にカバーをかけたりするのも、また智の力なのだから。


Doctor greating patient / hang_in_there




2014年5月29日木曜日

「治る」って、どんなことですか?


独居の認知症の患者さん。いろいろな経緯を経て、無事(?)精神科病院に入院してもらう。
家族と面接をすると、「以前のように、一人で生活できるようになってもらわないと困るんです。私達にも生活がありますから。ちゃんと病院で治してください」という要望。
実際は、ここまで極端な言い方をされることは、殆ど無い。
でも、「家族の話している内容を要約すると、こうなっちゃう」というパターンは、少なからずある。


「治る」という言葉を「病気の前の状態にもどること」という意味に解釈して、本人やら家族やらが、将来の生活方針を考えていった場合、後々手詰まりになりやすい。
ましてや、「病気の人を『治った状態』にもっていくことが、治療です。医者や病院の役割は、治療をすることですよね」という考え方を、治療を受ける側が持っていると、手詰まり確定になりやすい。
いや、治療をする側にも同じことが言えるわけで……



Aunt, Mom and Us at Nursing Home / ConnieFoggles


「『治る』って、どんなことですか?」

どこかで、こういった問いかけをして、考えなおしてみた方がいいような気がする。

統合失調症、認知症、うつ病、双極性障害……等々、精神疾患にも、様々なものがある。
症状の改善のありかた、寛解や治癒したという状態の認定など、疾患それぞれで違ってくるはず。
それなのに、単に「治る」という言葉でゴールを考えることで生まれる問題もあるはず

精神疾患に関する言葉の変更。大切なことという理解もしている。
それならば、「治る」という言葉も考えなおしてみてもいいんじゃないだろうか。


Random House English-Japanese Dictionary / torisan3500



2014年5月22日木曜日

やっぱり「話す」ことだ



精神科の患者さん、特に統合失調症の患者さんへの対応について、一般の人が「恐くないですか?」と聞いてくることがある。(自分の親類筋あたりになると、遠慮がなくなるので、もっとストレートな表現を使ったりするけれど……)

ただ、こちらは、専門家ではある。
疾患のことを知っている。
その知識が、「話しかける」ことを容易にする。
そして、必要以上の恐怖心もなく、対応することができる。

まぁ、それだけのことなんだけれどね。

2014年5月14日水曜日

「空気が読めない」というのは、考えていないわけじゃない

「空気を読む」の説明としては、まったく良くできていると思う。


喜怒哀楽や本心を「読み取る」時の思考・解釈パターンが、大勢の人とは違う独特になってしまっている人もいる。
その人に対しても、周囲の人々は「あなたは空気が読めない」と解釈したり、時には「空気を読もうとしない」と判断したりする。

そうではない。

「読めない」のではなくて、「解釈が違う」というだけの話だ。無論「読もうとしない」のではない。時には、他の人以上に「空気を読もうと考えている」ことだってある。

むしろ、「空気が読めない」と批判する側のほうが、思考・解釈パターンに対する意識が乏しくて、「テキトーに空気を読んでいる」場合が多い。
そういった人は、「読めていない」人に「空気の読み方」を説明することを求めても、それができないことがしばしばある。


身近な人が「空気が読めていない」と思ったら、「なぜ、読めていない言動があるのか」という疑問を持つと面白いかもね。
自分とは異質の思考パターンを知るというのは、刺激的で面白い知的作業であるはずだから。


Ninja Moves / specialoperations

2014年5月6日火曜日

でも、人生は長い


【2670】7年間安定していた統合失調症の妻が、薬をやめて4カ月で大変な状態になってしまいました | Dr林のこころと脳の相談室:
'via Blog this'

上記のリンクは、「まさかとは思いますが、この「弟」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか」のフレーズで有名な林先生の記事。
是非読んでみて欲しい。





「一度薬をやめてみることに挑戦してみたいんです。もし、それで悪くなったら、また受診して、その時には、きちんと薬を飲みますから」と本人や家族が真剣に話される場面は、何回も経験している。
でも、それはあまりにも危険すぎるというか、勝つ見込みの無さすぎる賭けだとは思っている。

時間をかけて、治療継続の必要性を説明しても、それでも服薬をやめることを選択する人もいた。そして、1,2週間後に受診して、「調子いいです」と報告。そのまま、治療終了(を宣言される)。
でも、数カ月後に、自分のところや他の医療機関に受診とか入院したりする。
それと、こういうパターンで症状が悪化した場合、以前のようには良くならないというケースも少なからずある印象。

薬物療法継続の必要性についての自分の基本的な説明は、次のようになる。
統合失調症の場合。「出来る限り、薬の”調節”はする。でも、ずっと飲み続けることが必要
感情障害の場合は、判断が難しくなる。でも、一般の人が想定するよりは、長期間服用するほうが再発のリスクは低くなりますよ

この説明に、どこまで納得してもらえるか。なかなかに難しい。


Long road out of eden / machernucha


薬をやめても、少しの間は「調子が良い」と感じる人がいるのも確か。でも、人生は長い。
これだけは、事実なんだよね。


2014年5月2日金曜日

「さよなら文通」に対するイメージって、これなんだと気がついた



病理医ヤンデル先生と、編集者の西野マドカ嬢の文通企画、「さよなら文通」。
(画像にリンクは貼っていません)


10通目あたりからの盛り上がりが凄いものになっている。
盛り上がりと言っても、派手な展開ではない。読んだすぐ後にではなく、時間が経ってからジワジワと心の中に何かが湧き上がってくるという、ネット上のコンテンツとしては珍しいタイプの「面白さ」である。



ヤンデル先生、マドカ嬢の二人は、この文章の交換を「殺伐としたやりとり」と言っている。

「殺伐としたやりとり」という意味は、何となく理解できる一方で、自分にはしっくりとこないものを感じて、悶々としていた。

でも、ここ最近のやりとりを読んでいて、ふと思い当たった。


これだ。


漫画「はじめの一歩」の「千堂武士vs幕之内一歩 のタイトルマッチ戦」。
(悪いけれど、ここから先は、「はじめの一歩」を知らない人は置いてけぼりです)

Twitterのツイートとも違う、Facebookページでの記事ともスタンスが違う、ツイキャスでのトークの雰囲気とも、どこか違っているヤンデル先生の語り口。

編集者である西野マドカ嬢が、その立場を越えて(?)自分の言葉で語りかけてくる。

文通というやりとりの中で、二人の良さが、ますます際立っていく。

自分は、それを目の当たりにしている観客なんだよね。


まだ、このやりとりが、後楽園ホールでのララパルーザ状態なのか、その後のミックスアップ状態になったところなのか、自分には判断できない。

この企画が終了した時に、どちらが勝つのか想像もできない。
ただ、「タイトルマッチ」の観客と同様に、両者に尊敬の念を覚えることは間違いないんだろうね。

実に楽しみだ。


2014年4月30日水曜日

「せーしんかのお医者さんなら、教えてくれるよね」



いわゆるリアルと呼ばれる、実生活での話。

実家に帰ったり、親戚づきあいの場に顔を出したりすると、「この前テレビで◯◯さんが、XXという病気になりましたっていってたけれど、アレ、どうなんだい?」みたいなことを聞かれるのは、既にお約束。
ほとんどの場合、ニヤニヤ笑いながら、「はぁ、どうなんでしょうねぇ」的な対応をすることにしている。

ところが、油断していると、芸能人であればまだしも、「近所の◯◯さん」とか、「オレの職場のxxさん」とかの話題になってくる。

「”ぷしこまさん”は、せーしんかのお医者さんだから、わかるでしょう。まぁ、身内なんだし、どうしたらいいか、それくらい教えてくれるのが当然だよね」
と言わんばかりの態度で、普段こんなことをしているとか、相手の方はあんなことを言っているとか、色々と情報提供すらしてくれる。

それでも、やっぱり、ぷしこまさんは、「ニヤニヤしている」。というか、そうするしかない。


Smile / Alan Cleaver


こんな状況で、「◯◯病みたいだから、受診したほうがいいでしょうね」なんて、ポロッと言ってしまったら、後々どうなるか、わかったものではない。
いや、むしろ、尾ひれの生え方くらいは想像できる。
「オレの親類の、せーしんかの先生に話したら、やっぱりビョーキだから、こうした方がいい。オレだけが言ってるんじゃなくて、お医者さんがそう言ってるんだから間違いない」
それくらいのことは、平気で口にするはず。そう言いたくなるのも、理解はできるけどね。

「ニヤニヤ」したせいで、身内の集まりという、場の雰囲気がよろしくなくなったことも、何回かある。まぁ、そんなことは知ったこっちゃない。
せーしんかの先生は、大抵変わり者だと相場が決まっている

私のリアルな生活の人間関係はさておき、
TwitterやFacebookのようなSNSの場では、医療アカウントに対して、「オレの知っている、えらーい、お医者さん」と思っている人は、予想以上にいるんじゃないかしらん。
だから、特に具体的な診断とか治療については、そういった存在についても意識することが必要じゃないかと、やっぱり思うんだよね。


まぁ、そこまで堅苦しく、考えなくてもいいんじゃないという意見も認める
そこは、まぁ許して欲しい。
あいつはちょっと変わり者だと身内にも思われている、”せーしんかの先生”なもので





2014年4月23日水曜日

おいしくご飯たべられていますか?


特にTwitterを使う人のほとんどにとって、SNSというのは、「あくまでも、個人の感想です」の表明の場

自分も、それを分かっているつもり。
そうなんだけれど、時として意図的に、時としてネタとして、「あくまでも……」というフレーズを入れてしまう。それくらい「個人の感想」というスタンスは忘れ去られがち。

もう一つ忘れ去られていることがある。
それは、「個人の感想」を表明するのであれば、他人のそれも認めていないといけないということ。当たり前の話なんだけれど。

時々目についてしまうのが、「俺の感想は、◯◯といったもので、これは正しい。お前の感想は、◯◯ではない。それは間違っている」っていう展開。時には、暴力的なものも。
これって、新手のジャイアニズムと言えばいいのかしらん。


CEO Face / rogerimp


元々「正義」とか、「正しい」といった価値観は、all or nothingというか、二者択一というか、とにかく単純な結論にたどり着きやすい。だから、「個人の感想」とは、相性が悪いはず。
ところが、「正義」は、おそろしい魅力を持っている。誰もがそれを使いたくなってしまう。
取り扱い注意のモノなのに。

「正義」と「個人の感想」を混ぜ合わせた結果できたモノって、ものすごく窮屈なものになってしまう。
窮屈なものを自分の頭の中で考えていると、自分の気持ちも窮屈になってくる。
そういったストレスは、頭の中のどこかで感じて、気持ちも苦しくなりがち。
でも、哀しいかな、人間って、こういったストレスには、かなり鈍感だったりする。

そんなストレスが溜まるような行為は、当然メンタルヘルスとしても、よろしくない。
だったら、どうするか。

「本当に気持ちがよい」と感じるように、考え方や心を持っていくことが解決方法の一つ。自分の考え方や心のあり方を意識的に見つめ直すことで、それはできるようになる。
これ、大切だよ。

意識的に見つめ直すやり方は、色々ある。
「本当に、自分が楽しいか」という問いかけは、上手なやり方の一つだと思うので、割りとおすすめ。

どこか、自分の気持ちがおかしいかなぁと思ったら、「最近、自分って楽しいこと、気持ちの良いことをやっていたかなぁ。そういうこと考えていたかなぁ」と振り返ってみたらいいかもね。



PhoTones Works #115 / PhoTones_TAKUMA


そんなことをヤンデル先生のツイートを読み返したり、書き写しながら考えてました。




2014年4月9日水曜日

マイ診断基準を作り上げよう

統合失調症でも、感情障害でもいいけれど、「この病気の本質は、◯◯である」という自分なりの診断基準
精神科臨床のレベルを上げるためには、これが必要になるんじゃないかと思っている。

こういった”マイ診断基準”を持っていると、治療の説明が変わってくる。
教科書やパンフレットの記述をそのまま読み上がるのではなく、患者さんや家族に応じて、患者さんの疾患について、「自分の言葉」で説明することができる。
「自分の言葉」による説明は、臨床の場面では、強い説得力があると信じている

”マイ診断基準”は、実際の治療経験の中で作り上げるしかない。
治療の中で、自分の頭で考えたり、身体で感じたりしたこと。そういうものが、診断基準を作り上げるための材料になる。ということは、自分自身を観察したり、思考を見なおしたりすることになる。
それなりに大変な作業になるはずだけれど、それはしかたがない。



一方、初期研修などで短期間だけ精神科を学ぶのであれば、素直にICDやDSMといった「操作的診断基準」を中心に考えるべき。
そういった医療者に求められるのは、「操作的診断基準」という共通言語に慣れることだから。共通言語は失敗の少ないスタンダードな治療を行うためにある。むしろ、乏しい経験にもかかわらず、疾患について分かったような気持ちで、治療的な振る舞いをすることのほうが問題。



Shot 4 / Indenture


”マイ診断基準”と「操作的診断基準」の二本立てで、診断を考える。
これはこれで、いろいろと悩むことが増えることになる。ただ、その悩みが精神科臨床の能力を鍛えてくれて、「面白いもの」だと思っている。

2014年3月20日木曜日

高度に発達した屁理屈は……

SF作家であるアーサー・C・クラーク氏の「クラークの三法則」に 「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない(十分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない)」 という格言を、ネット上でネタとして時々見かける。

これを真似すると、「高度に発達した屁理屈は、妄想との区別がつかない」ということになるのか。

ただ、これを正しく言えば、「妄想とは、高度に練り上げられた屁理屈である」だね。



Moody Pirate / goodnight_photography



統合失調症の患者さんの妄想は、どうやって生み出されるか?

思考障害も、統合失調症の重要な症状の一つになる。
患者さんは、何かにつけて、自分なりに一生懸命筋道を立てて考える。でも、思考障害という症状のために、「正しい」理屈ではなくて、「ずれたり、飛躍したり、どこかおかしな」屁理屈が積み上がっていくことになる。その結果、「事実とは異なる、おかしな内容」を話してくる。周りの人は、これを「妄想」と判断することになる。

患者さんを治療していくと、この「論理のずれや飛躍」の幅が狭くなっていくように思える時がある。特に、薬物療法が有効な時が多くて、自分なりの治療効果の指標にすることも、しばしば。
この指標は、薬の調節や患者さんの状態を把握するのに、とても役に立つ。

だから、治療の中で、「おかしな話をしている」=「妄想がある」というところで、思考を止めてはいけない。「◯◯という妄想がある」とカルテに書いたところで、満足してはいけない。

その妄想が生み出されるには、「どれくらい思考が障害されているのか」というところまで考えることが重要
その作業で、病状の見立ての精度が上がることになる。そして、結果として、治療の精度が上がることになるはず。
自分は、そう考えている。


Thinking / Creative Ignition



2014年3月7日金曜日

症状日記を書く人に指導していること


病理医ヤンデル先生が、ハリソン内科学という教科書を読みながら、分かりやすく解説してるツイキャス。
次のリンクは、そのツイキャスで、「頭痛」をテーマにした第3回(注:画像にリンクは貼っていません)

11番札所「頭痛(3)」 - ツイキャス:
'via Blog this'



35分あたりで出てくる、上手に治療を進めていくために「頭痛日記」が有効という話。
(一応、時間を示していますが、最初から聞いても損はないし、その方が話は分かりやすいはず)

不眠でも、頭痛でも、自分の症状を日記のように書きとめるというのは、治療に役立つことが多い。
但し、同じ書くのなら上手な書き方もあるんじゃないかと。



229-365 (Year 6) Diary / ♔ Georgie R


日記の書き方については、それぞれの主治医で重視するポイントがあると思うので、よく相談してみるのが良いかも

自分がポイントに置く日記の書き方は、客観的な情報と主観的な情報を分離して記録しておくという点。

一番わかり易い客観的な情報というのは、日付や時間。
それ以外にも、症状が起こった時の状況。例えば、”部屋でゆっくりしていた”、”買い物をしていた”、”家族と◯◯について話をしていた途中”といったもの。

主観的な情報というのは、その時の気分とか、その時に感じていた症状の程度になる。こちらは、”ものすごく不快だった”とか、”なんとか我慢できる程度”といった感じでいい。
それでも、書くのが難しければ、自分なりの点数をつけるのでも可。
不眠だったら、”ぐっすり寝れたので100点”、”起きた時に、しんどかったので60点”、”寝た気がしなくて、20点”とか。
点数の付け方は、テキトーでいい。だって、”主観”だから。他人にどう思われようとも、自分がそう感じたんだから、それが正しい。

最初は、客観的な情報を書くことを心がけるようにするくらいの感じで良い。主観と客観の使い分けは、考え始めると切りがないので。

それよりも、気軽に書ける方が大切。なぜなら、症状日記を使う時の、最大のハードルは「自分の症状を記録する習慣をつける」ことだったりする。実は、このハードルは、思った以上に高い。

このブログを見ている人には、ピンとこないかもしれない。
それは、これを読んでいるあなたは、「既にTwitterなどのSNSを使って、日常の出来事や考えたことを記録する習慣が付いている人」であって、このハードルをクリアしている可能性が高いからです。
念の為に言っておくけれど、症状日記にTwitterやオープンなSNSを使うことは、あまりお勧めしない。自分の症状をワールド・ワイドに広めることのメリットって、自分はあまり思いつかない。


twitter / hankenstein



この手の日記の効果は、おそらくアウトプットの量に比例するはず。だから、継続することが大事。
1週間程度の記録では、効果を感じることは、あまり期待しないほうが楽。
「量が質に転化する」法則が当てはまると思うので、それなりの蓄積が必要じゃないかと


実にザックリとした説明になりましたが、自分が考えるポイントの一端は、こんな所になります。

いつものように、こういうところに気をつけた方がいい、こういったやり方があるという異論は、山のように認めます。(特に、認知行動療法の専門家の人)

いずれにせよ、いろいろな人の、色々な工夫が、目にとまるようになれば良いなぁと思っています。



2014年2月28日金曜日

100%理解されることは、100%無いよね

患者さんやその家族から、以前に受けた治療の話を聞いて、「患者さんへの診断や治療の説明が、きちんと行われていない。そんなことだから、患者さんに対して、的はずれな治療が行われている」って、憤慨する医療者を時々みかける。

気持ちは分かるのだが、そんなに単純に怒ったりしていいものかしらん、という話をします。


Loftで買った文房具 stationary / salchu


診察室で、特に口頭で説明した内容が、患者さんや家族が100%理解したという考え

診察終了後、忘却曲線に従って、その内容が薄れて、印象的なキーワードだけが残って、「都合の良い」解釈がされている可能性

この二つの罠があることは、考えておいたほうがいいんじゃないかしらん。


例えば、
「あの先生、色々と説明してくれたけれど、なんだかたくさんの事を言われたから覚えていないの。でも、テレビで言ってたうつ病みたいな話をしていたから、やっぱりうつ病だと思うの」
そういった会話が、診察の後、会計を待つ間に展開されていても、不思議なことではない。

他にも、
「こういった症状は、抑うつ状態と考えます。今の状況では、うつ病といえるかどうか、他の可能性も含めて、時間をかけて判断します」と説明した直後。
「先生、やっぱり、うつ病なんですね」と返されるのって、別に珍しいことじゃない。
それくらい、一般的に「抑うつ状態=うつ病」というイメージは強い。

こういった状況は、いろんな形で起こっているわけで。


つまり、説明する側、される側の問題ではない普通に起こりえる、不可避な罠というのが存在するんだよね、きっと。



Trapped / fauxto_digit


もちろん、病名告知などの説明をする側としては、内容の精度や伝わりやすさのレベルを上げていく努力は必要。
ただ、情報量を増やしていくのは悪手。
説明を受ける側の心に響くような、病状や治療のエッセンスを端的に現したキャッチフレーズを使うと、場合によっては、ものすごく効果がある。ただし、センスが必要だし、過去に「うつは心の風邪」という例があるように、誤解を生じて、余計に話をややこしくするリスクもある。

説明そのもののシステムを、もう少し工夫する方向性のほうが良いような気がする。

つまるところ、医師の説明が100%理解されて十分に保持される可能性は、100%無いということの再確認だね。
(それと、「後医は、名医」バイアスというのも存在することは、忘れちゃいけない。)

というわけで、「あの医者(医療者)の説明は問題がある」という判断は、後々の事を考えたら、慎重にするほうがベターじゃないかしらん。




というわけで、自分の場合、患者さんや家族から聞く前医からの病状説明については、いわば「話半分」という姿勢で聞くことにしています。
治療的に働いているようであれば、それで良し。自分の見立てと違う場合には、患者さん側の認識と、こちらの方針のすり合わせをする。

前医を非難ることは、殆どしない。相手をかばうという意味でも、自分の優秀さを誇示する意味でもなくて、治療的になることがないから
患者さん側の認識と違っていても、「これが、今後あなたを治療する私が考える方針です。今までのそれとは、違いは出てくることはあります。どうしますか?」という説明。

とりあえずは、この方針で仕事をしながら、考えていくことにします。



いつもの話になりますが、医療者によって、色々な考え方ややり方があると思います。
だから、異論は山のように認めます。
そういった異論が、あちらこちらで情報発信されることを願うばかりです。

やれやれ。

2014年2月27日木曜日

「この検査が何点になったら、会社休めますか?」


初診から数回の受診。しかし、受診する曜日がバラバラなので、同じ医師が連続して診察している場合が、殆ど無い。
精神病院の外来では、こういった受診状況の患者さんが、時々現れる。

で、こういった患者さんから診断書などの作成を求められた場合、どうするか。自分にとっては、結構悩みの種。

こういうところで、悩むということ自体、利用者側から見ると奇異なことのように思えるかもしれないけれど。


Working Working Working / Michael Cornelius



言ってしまえば、下手に悩むより先に、SDSとか、HAM-Dみたいな検査を施行。
◯◯の検査で、◯点の抑うつ。休養が必要と判断」といった感じで記載すれば、体裁の整った書面は作成できる。でも、自分の中では、ものすごく抵抗感があるので、なかなか書けない。(そして、患者さんに嫌われる……) 
例えば、「◯◯の検査で、1ヶ月の休養が必要と判断されるのは何点からですか?」なんて、問い直された場合、どう答えるのが、正解になるんだろうか?

おそらく、現実にそんな質問をされることは無いと思う。

ただ、「わたしのゴーストが、そう囁いてきた」時に、自分自身が、何を答えて、どう行動するかという問題なんだよね。

やれやれ。



ちなみに、「わたしのゴーストが、囁く」の元ネタは、こちら。


2014年2月21日金曜日

医師における”正しい行動原理”とは?

森元首相の問題発言。
その解釈についての、このツイートを見て、色々と考えてみた。

「診察室という場で、目の前の患者さんの希望をかなえるためのサービス」をどれだけ優先させるべきか。
というのが、自分の中で、未だに答えを出せない問題の一つ。

こちらからみると、首を傾げたくなるような処方などをしていても、患者さんに人気のある開業医。その対応を聞いてみると、「診察室で、自分の希望をきいてくれるサービス」をしてくれる医師であることが多いんだよね。
この現実をどう評価して、どう行動するか。

バランスの取り方ではあると思うけれど……



Teddy Bear Hospital / Christiaan Triebert



大学とか、専門性が高くて名の知れた施設とかでの治療であればいざ知らず、一般的な診療場面では、「病院の周囲にいる人間へのサービス」に重きをおくほうが、上手くいきやすいとこが多い。
この状況も、違う立ち位置から見たら、評価が異なってくるだろうけどね。

そういうことを考えていたら、診断だけではなくて、医療に対しても「多軸的な評価」がされたら、いろいろな意味で面白くなりそうな気がする。




(追記)
映画「ディア・ドクター」
 主人公は、地域の人間にとって「良質なサービス」を提供してくれる医師で、評価も高かった。しかし、多くの人間は真実を知った後、手のひらを返したり、黙してしまう
いつ何時「手のひら返し」が起こるかもしれないという不安が、状況をややこしくしている一因。






2014年2月19日水曜日

馬鹿と云われないように……


自分にとっては、心に何かをつきつけられるような気持ちがした、ヤンデル先生の連続ツイート。

「医療者として内部にいるとわかるんだけど、○○の実態は○○なのに、世間は××だと思っていて残念だ」みたいなトーク 
これが、ヤンデル先生からつきつけられたポイントの一つ。まるで、鋭い刃物のようだ。

ふりかえれば、自分のツイートも、こういった要素が多い。
普段の仕事の中で、どうしても「世間は、こう思っている。残念でしかたない」と思ってしまう経験はあるし、ネットで自分の意見を表明する原動力になってたりする。

でも、残念なのは「世間」ではないんだよね。

「よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ」
立川談志が、立川談春に、そう言って説教をしたというエピソードが思い出される。


世間は、残念ではない。残念なものは、おそらく自分の中にある


説教は、こう続く。
そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。

自分は、世間を残念に思えるほど、世間を知らない。浅はかな理解に基づいた行動というのは、浅はかな結果になりがちである。
それこそ、普段の臨床の場面で、何度も経験していることだ。
十分に理解できていない患者さんの診断や見立ての甘さ。そこからの反省という形で。

立川談志は、この一言で説教を終わらせている。
その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う


うん、馬鹿にはなりたくない。哀しいかな、そういったプライドだけはある。

ネットは、日常的なものとして存在している。これも、事実だ。
だから、「じゃあ、変なことを言わないために、ネットはやりません」というのも、現実から遠ざかるよで、こういった行動も馬鹿がすることのように思える。

だから、理解したり、分析しないといけない。考えないとダメなんだ

やっぱり、自分はこれからも、「下衆ノート」に馬鹿なことを書きつけたり、ノートに独りよがりなことを書き出したり、いろんなことをツイートしたりしていくことにします。
「それは、今までやっていることと、同じじゃないか」という突っ込みも、承知の上。

時々、こうやって突き落とされたような気持ちになりながら、「馬鹿と云われないように」やっていくしか無いんだろうな。

ということで、馬鹿なことしながら、反省しながら、何か変わりながら、ツイートしたり、ブログをしたりします。
これを読んだ方々、これからもよろしくお願いします。


最後に、面白いツイートや、こういった刺激的なツイートをしてくれるヤンデル先生。いつも、ありがとうございます。



立川談志の説教のエピソードは、この本に書かれてあります。

2014年2月10日月曜日

初診の診察の第一声は?

外来での初診の診察。
どんな台詞から診察を始めるか。バリエーションが少なそうなんだが、案外、人それぞれの診察への入り方がありそう。
ちょっと、気になるところではある。



Nice To Meet You, The Hub Milan 28.09.2010 / Impact Hub


初診の患者さんへの診察の入り方。自分の場合、「今、一番困っていることは何ですか?」だと思っていたが、よくよく考えてみたら違っていた。
「先程の予診と、同じようなことを聞くことがあるかと思います。よろしくお願いします」の方が、先ですね。

予診を信用していないという訳ではない。
むしろ、診察の中で、「ここ、大事かも!?」って思った時に、自由に問診を広げることができるには、しっかりとした予診が必要。
だから、わりと予診に対しては、細かく注意したりする。(やっぱり、スタッフに嫌われるわけだw)

あと、自分の診察の進め方だと、患者さんの方は、もう一度予診を取られるように感じるはず。でも、医師から、もう一度聞かれることで、新たな情報が得られる場合も少なくない。
これも、別に予診が悪いわけではない。「大事なことだから、もう一度聞きました」感の影響が大きいはず。


Cafe and vin rouge / Signe Karin



診察のスタイルは、色々なパターンがあることを知っておいても、大きく損にはならないような気がする。
ただ、ライブ、つまり、実際の診療の場で一緒に共有しないと分からないこともあるのも確か。
若手の医師が、どういうやり方で、診察のスタイルを学ぶのが良いか…… 

やっぱり、難しいよなぁ。

2014年2月7日金曜日

底意地の悪い精神科医ですが、それが何か……



上記ツイートの内容は、概ね同意。

でも、頭の中に、何となくモヤモヤしている。多分、自分は底意地の悪い精神科医なんだろうな、ということなんだろうけれど。

どういうことかというと、他人のカルテや紹介状の記載については、一旦疑って読むみたいなところがある。
紹介状の中に、具体的なライフイベントの記載があったとしても、「それは、観察者のフィルターを通過した情報なんでしょう。鵜呑みは危険」みたいな囁きが、どこからか聞こえてきたりする。

信用のならないと言ったら、言い過ぎかもしれないが、そんな紹介状の経験もある。
とある精神科の開業医からの、入院依頼の紹介状。
生活の状況や本人の言動について、認知症を考えさせられるエピソードを、それこそ具体的に書かれていた。
症例報告並みに丁寧な病歴の記載。記載されている診断名は、もちろん認知症。
ところが、いざ診察してみると、老年期の「うつ病」じゃないかしらん?
実際、抗うつ薬中心の処方で状態が改善して、無事退院されましたが……

もちろん、逆の場合もある。
その臨床能力を信頼している医師からの紹介状の内容は、なるべく受け入れるようにしている。
例えば、自分が診察した時の評価が、紹介状のそれと違っていたとしたら、まずは自分自身を一旦疑ってみるくらいに。

要するに、紹介状や他人のカルテの読み解きも、自分自身の臨床能力が問われるというだけなんだが。

逆に、自分が紹介状を書いたりする場合。
精神症状の評価が難しいと判断したら、なるべく「客観性」を意識した、具体的な情報を記載するようにしている。そして、可能であれば、相手に判断を委ねるニュアンスを含めるようにして。
往々にして、このニュアンスを汲み取られない場合もありますが……


saturated writing / tnarik


いずれにせよ、カルテにしろ、紹介状にしろ、情報の載せ方には、やっぱり限界が存在するんだよね。すべての情報が載せられるわけではない。
それは、Twitterで140文字の中でのやりとりで、勝負するのと同じこと。

Twitterにしろ、紹介状にしろ、情報の発信とか、読み取り方には、テクニックや判断する能力みたいなものが必要じゃないかしらん



(追記)

精神科的現症の記載が、案外難しいものであると判っていただける、実に面白いツイート。

ドラマの中での話だけれど、
”食べ物をみると、自分が殺した敵兵の死体に見える”という状況をどう解釈するか。
ある人は「妄想」と呼び、別の人は「錯覚」と判断する。状況によっては(この場合、後年になれば)「再体験症状」と捉えて、ちょっと違った疾患概念の中で解釈する。

なかなか、面白いでしょう。

ちなみに、「私はこのドラマを見ていないので、どれが正解なのか、全くわかりません」。そう言わせていただきます。

2014年2月5日水曜日

認知症の診断をつけることには意味がある



自分も、これと似たようなネタ・ツイートをしていたことがありまして、それが、こちらになります。

 それにしても、2010年4月のツイートとは…… 思えば、こんなに長くTwitterやってたんだ>自分

冒頭のツイートについて、もう少し考えてみる。
大きく認知症とはいっても、アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症、前頭側頭型認知症等々、色々な認知症があって、普段の臨床の場では、診断を確定させていくことが一つのポイント。その理由の一つには、認知症の違いに応じて、対応を変えたほうが上手くいきやすいから
冒頭の例でいえば、アルツハイマー型認知症と、前頭側頭型認知症とでは、リハビリを断る理由が異なっていることも考えられる。診断がわかっていると、理学療法士に「次からは、◯◯という言い方で対応してください」などの、具体的な指導をすることができる。


認知症に限らず、疾患の本態をきちんと認識していないと、他の疾患の患者さんにも似たような対応や生活指導を、少なからずやらかしちゃうんだよね。

でも、認知症は、精神疾患に比べると、想定しやすいような気がする。


Fixer Kayleigh Duddin with her Grandma / FixersUK



疾患の本態とか、本質みたいなものって、教科書の記述そのままを覚えていても、応用が効かない感じ。自分の経験を糧にして、自分の腑に落ちるように作り上げた「理屈」の方が運用しやすいような気がする。

ところが、「理屈」は、ともすれば”トンデモ”になる危険性もある。

”トンデモ”にならないようにするには、理路整然とした「正しさ」と、相手に受け入れやすくする「応用の効かせかた」が必要。この二つを、自分の「理屈」の中で上手く使っていくことになる。

「正しさ」と「応用のきかせ方」のバランスの取り方は、未だによく分からない。
どうすればいいか、今も、色々と考えているところ。



2014年1月31日金曜日

「下衆ノート」という最強の道具



ちょっとした思いつきや閃きを形にする。その時に、何かの道具を使うことが必要ならば、使える状態になるまでの時間が、大きなポイント
多分、数秒以内じゃないと道具を使うのが面倒になって、頭の中に保持することになる。そして、保持できなくなって、忘れてしまうという経験は数限りなく。

外来診察の時に、説明の要点を紙に書いて説明することがある。毎回するわけではないが、机の上に、すぐに使える状態で紙とペンを置いておくようにしている。そうでないと、説明しようと思った瞬間から紙とペンを取り出す作業をしていると、機を逃すし、口で説明しただけでいいや、になっちゃう。

今使っているスマホは、アプリの起動に時間がかかることが多いし、下手をすれば固まったりする…… だから、とても便利に使える道具としては信頼出来ない。
常に胸ポケットに入れているので、さっと取り出せて、パッと書きつけられる「下衆ノート」が最高と思ってしまうんだよね。



Notebook / sk8geek



認知行動療法をする時、治療を受けている人は、日々の行動と、その気付きを記録する必要が出てくる。
それを考えると、「今、その時に」メモを取る工夫を指導、習得させることもポイントの一つになるのかもね。

このあたり、専門家の人は、どんな風に指導しているのだろうか。気になる。

2014年1月27日月曜日

「幻聴」という症状に、どうアプローチするか

「あなたの病気は、統合失調症です」と、患者さん本人に告知しやすい雰囲気になったのは、治療的に大きな意味があった。
本当にそう思う。

告知することで、治療の選択肢が大きく増える。

自分が医師になった当時、統合失調症という告知は慎重にするべきであるという雰囲気が強くて、なかなか告知に踏み切れなかった。だからこそ、よけいに意味があると感じてしまうのかも。

ただ、告知の問題がクリアできたら、それで終わりかというとそうではない。
次の問題は、「統合失調症は、慢性疾患という性格があるので、ある程度症状が残っていることが当然」という認識を作り上げて共有して、行動できるかどうかということなんだよね。



Coffee Break! / Evi Christodoulou




「幻聴」という症状。それに対する治療目標について考えてみる。

ありがちな「幻聴が無くなるようにする」という目標は苦しい。
「幻聴がある状態だけれど、どうやって生活をするのかを相談していく」という目標にしたい。
そのことを、患者さんやその家族にも納得してもらう。そして、具体的な方策を一緒に練っていく。そういった治療を目指していくのが理想的だ。


「声が聞こえなくなるようにしてください」という治療目標は、なかなか達成が難しい。
下手をすれば「何時までたっても、この病気が治らない」という感覚に大きく囚われてしまう。だから、苦しい。

「聞こえてきても、気にしないようにしましょう」というアプローチもある。
でも、気にしないようにと思っていても、なかなかできないのが、この症状である。
さらに、「幻聴なんて無いんだ!」、「聞こえても、気にしない!」と思うことは、現実の状況を強く否定することになる。
強い否定は、裏を返せば、強く認識して、心のなかに取り入れるということにもなってしまいがちだ。

「聞こえなくする」ことから離れて、「聞こえている中で、できることは何か?」「これくらいの幻聴はあるけれど、◯◯すればいいじゃないか」といった感じに認識が変われば、もう少しうまく行きそうな気がする。

そういった方向に導くアプローチができるようになりたい気持ちだけはある。



Nessebar Old Town, Bulgaria / Vicburton


場末の精神病院勤務の精神科医にとっては、他の人がどういったアプローチをしているのか、とても分かり難いところ。

患者さんに対して上手くいった(あるいは、上手くいかなかった)アプローチという経験が知りたい。

そういう気持ちはあるんだよね。