2013年12月29日日曜日

「あきらめないで!」っていう話

時事ネタではあるんだけれど、「人工知能学会」の表紙の件から派生した問題に関連した、下記のブログを読んで思ったこと。

人工知能学会の表紙のメイドロボットを考察したら深すぎた | ドウデモイイコト。:
'via Blog this'


リンク先を読むのであれば、途中で止めずに、最後まで目を通すように。
こういうのは、嫌いではない、いや、好きだなぁ。

「正解を積み重ねた論理の展開」は、正しいんだけれど、どこかつまらなかったり、息が詰まったりする内容になりがち。
多少無理があったり、論理的な間違いがある「屁理屈」のようなものが、「面白く」なり易い。無粋な「つまらない屁理屈」は、本当につまらない。

つまらない「屁理屈」でも、粋なワンフレーズを付け加えることで、「面白く」できる可能性を秘めている。大逆転の可能性も残されているわけだ。

で、人間の思考って、大抵「屁理屈」レベルなので、「面白く」できるチャンスはいくらでもあるんだよね。



「あきらめないで! あなたの思考」

……、失礼しました。


2013年12月27日金曜日

正解がない治療は、面白い

普段の治療の場面では、多くの場合、患者さん自身には病識が乏しいという前提条件を忘れないようにする。
うん、やっぱり、これは大事だ。


「真面目な」傾向が強い、古典的な(?)うつ病の患者さん。
こういった患者さんは、精神運動抑制などがあって、思考能力の低下や低い自己評価が根底にある状態であっても、低下している気力を振り絞って、頑張ったり、周囲に心配をかけまいとしたりする。
この時に、傍らで様子を見ていると、ついつい「良くなった」と判断してしまいそうになる。

でも、「良くなった」という判断を基に、「もっと良くなるように、◯◯して頑張りましょう」的なアプローチをしてしまうのは、やっぱり悪手だと思う。
”今は、安静休養を保ちましょう”という方向が定石だよね。



Relax / m_shipp22



ただ、こういった状況では、患者さんからは「良くなっているので、大丈夫です」という強い要望が出てきやすい。だって、患者さん自身は、病識に乏しくて、自分はやれると思っているから。


この場面で、患者さんに対して、どういった働きかけをするのか。
ここが、治療の中で難しいところでもあるし、面白いところ。



ただ単に「患者さんが大丈夫と言っているから、患者さんの思うとおりに、やらせてあげましょう」という判断をする人がいるけれど、それはどうかと思う。
「症状が残っているのに、頑張ろうとしている」患者さんに、「頑張れ」って応援しているようなものだと思えるから。

「患者さんを信じること」と、「患者さんが病識を持てない/かなり持ちにくい」というのは、別の次元の話

患者さんの状態を、医療者として評価していくことが基本。
評価していくのは、難しいし、当然責任を伴う。
自分も、まだまだ迷ってばかりだし、時には後悔することもある。

現時点での精神科医療の中では、こういった判断の正解、模範解答は無いと思っている。
でも、だからこそ、自分は、やりがいがある仕事だと感じている。こういった判断を、他の誰が下すんだってくらいの勢いで。 


……、いつの間にか、精神科の仕事は、こういう面白さもあるという話になっちゃった。



On My Way / AlicePopkorn

でも、面白さの見出し方は、人それぞれ。

だから、TwitterとかSNSでは、多くの人が、「自分の思う面白さ」を語る場所であってほしい
これからも、色々と面白いものを見たいものです。



2013年12月12日木曜日

ヤンデル先生の新たな挑戦(?)



Twitterでのヤンデル先生は、PCの前に座っている限り、自分に対する返信(リプライ)のみならず、いわゆる”エアリプ”にも、即座に反応する。その速度たるや、おどろくべきものが有り、Twitterだけではなく、ツイキャスでも、そのリアルタイムのコミュニケーションの能力の高さには、いつも感心していました。

そして、今回の新企画。”公開型文通”(交換日記は、私の勘違い……)ということで、お互いが時間をかけることができる形のコミュニケーションが展開されるようです。

文通の相手は、西野マドカ氏。ツイート数は多くありません。しかし、何気ない挨拶ツイートなど、ツイートの雰囲気が好きで、思わずファボを入れてしまうことも少なくありません。
魅力的なアカウントの一つで、非公開リストにも、しっかり入れさせてもらっています。


文通というスタイルでの、この二人のコミュニケーション。それが、こちらのブログで始まりました。




独特の時間の流れ方を感じさせる、なんだか魅力的な雰囲気が伝わっきています。

これからの展開が非常に楽しみです。


Letters Play Important Roles in our Lives / William Arthur Fine Stationery






2013年12月5日木曜日

「頑張ってください」は、難しいよね


うつ病の患者さんに、「頑張ってください」という言葉をかけてはいけないのかという問題。



118/365 Worry / Vinni123



まず、自分自身としては、「この病気だから、こういった答え方をしよう」的な考え方に縛られるのは、好きではない。患者さんの状態に合わせて、受け答えもアレンジしていくことが大切ではないかと、いつも考えているからだけど。
状況によっては、アレンジした「頑張ってください」という言葉を、うつ病の人に伝えることもある。

かといって、基本を外れてことが良いことだとも思わない。
患者さんの状態の評価や見立てが難しいことも少なくない。その状況では、基本に則ったやり方が正解。

基本を外れる時には、そのリスクも背負うことを覚悟してから

リスクとベネフィットのバランス感覚が試されることになるわけだし。このバランス感覚を身につけるのは、難しい。だからこそ、基本を外れるやり方は、他の人に単純にお勧めできるものではない。

うつ病の患者さんに対して、「頑張ってください」と声をかけたい時もある。
でも、自信がなければ、それは避けたい。

その代わりに、「頑張ってください」というフレーズを使わずに、「頑張ってください」と伝える術をひたすら考える
考えた数だけ、「頑張ってください」という言葉を、上手く使えるようになってくるはず。
具体的には、状況設定のコントロールの仕方とか、言葉の選択や言い方とかが、身についてきている。



May I help you? / qthrul



じゃぁ、どれだけの経験があれば、基本から逸脱できるか……
それは、使う人の自己責任における判断だよね。誰が決めるわけでもない。自分自身が決断すること

決断できないのであれば、原則から外れるのは止めた方がいい。原則というのは、そのためにあるのだから。
そして、正解のやり方がどんなものか。それは、誰にも分からない

でも、わからないところが、現時点での、この分野の医療の面白いところじゃないかしらん。




2013年12月2日月曜日

松本ハウスが、「あさイチ」に出演すると聞いて……



12月4日に、松本ハウスが「あさイチ」に出演し、「統合失調症漫才」を披露するとのこと。

(精神科)医療関係者以外の人が、この漫才をどんな風な眼で見て、どんな風に考えるのか。
とても、気になる。


 
(こちらは、過去に公開されている統合失調症コント)


松本ハウスの「統合失調症漫才」。思いっきり「笑える」方向に進んでほしいなぁと思うのは、自分のワガママなのかな?
「笑えるもの」になった後に、医療者が自分の役割として、きちんと医学的なフォローを入れることにすればいいわけで。
何より、誰もが「笑える」ものになることが、重要じゃないかと思っている。


”「笑える」ものになる”ことは、必ずしも”軽く扱う”ということじゃない。
「笑える」ものになったものを、きちんと「考えられる」ものにしたり、「普通に取り扱えられる」ものにする。

医療側としては、そういった意識で、松本ハウスから発信される「統合失調症」関連の話題を扱うことが、大切じゃないかなぁ。





2013年11月29日金曜日

診察を進める上での「両輪」

診察場面で患者さんの反応を見ながら、「間」みたいなものを意識することも多い。
「間」をコントロールするために、沈黙を使うこともあれば、「うーん」、「そうだねぇ……」みたいなつぶやきを使うこともある。あえて、「間」を潰してたたみかけることもある。

「間」の取り方にも、医者それぞれに癖がある。
他の医師の診察を見る機会があれば、そのあたりを意識して観察すると面白い。観察しているだけでも、「間」引き出しは増えてくる。





治療のために、患者さんの10のことを分かってもらう必要があると仮定
1回の面接で10、2回の面接で5ずつ伝えるやり方は、結局、非効率なんだろうなぁと、最近反省している。
1回の面接で1ずつ、時々やり直すから、結局20回くらいの手間(?)をかける。こういうやり方のほうが、お互いのストレスが少ないままで、治療が進むような気がする。


Not Che / Photocapy


治療が始まったばかりの時には、伝えないといけないことが多い。早く治るためには、全部を伝えきってしまおうと、余計に焦ってしまう。必然的に1回の面接で伝える量が多くなってしまう。
それは、濃密な診察と言えばいえるかもしれないが、患者さんの方も処理する量が増えてしまう。結果、混乱してしまうことも多くなるし、場合によっては、理解することを放棄しちゃったりする。

そこで、「1回の診察で、患者さんに渡すおみやげは1つ」という原則が大切になる。
10の伝えることがあるのならば、その中から現時点での最優先事項を1つ決める。その1つを伝えるために、最善の手段を考える。これが基本。
何を最優先事項にするか。それを決めるのがセンスであって、かなり論理的な判断で決めることもできる。

一方で、患者さんや家族の方は、”早く治りたい”という気持ちが強い。だから、多くのことを知りたがってくることも少なくない。
でも、そのペースに巻き込まれると、上手くいかないことが多い。
やるべきことは、そういった相手の焦りのコントロール、つまり「情動をコントロール」することに気を配ることだ。そして、「共感」という媒介が必要。


診察では、治療に対して必要なことを判断、優先順位をつけていくという「論理的な判断」
相手の情動に寄り添う「共感」
この2つのバランスの取り方が大切なんだと思う。



2010 ITEST Advisory Board Meeting / NWABR



終わってみれば、いつもの当たり前のお話。




2013年11月27日水曜日

正解は「神様だけが知っている」


大きなアクシデントが発生しない内に適切な対処をしていく。その結果、何事も無い日々が続いていく。
これが、リスク・マネージメント的な考え方での理想的な対処方法。

この方向で考えると、些細な症状の段階で適切な対処をしていく。そうすることで、大きく症状が悪化することがない生活が送れるようにする。これが、理想的な治療の展開になるのかしらん。



PMBOK Cafe Risk Management (1) / Robert Higgins


「うつ病」と言い切るまでには至らないが、そこそこの抑うつ状態の患者さんへの治療について考えてみる。
軽い抑うつ状態なんだけれど、なんだかこじらせそうだなぁと判断した時の治療と言えばいいのか。

多くの場合、抗不安薬を中心とした薬物療法が選択されるように思う。
でも、自分の場合、抗不安薬への依存傾向が出てきた場合とか、症状が進行して抗うつ薬を必要とする展開になる可能性とか、マイナスの要素を、わりと気にしてしまう。
ということで、明確に「うつ病」と診断していなくても、抗うつ薬中心の治療を試みることがある。わりと良くなるケースも多いし、本格的な「うつ病」の治療に比べても、投薬量も少なかったり、服薬を続けてもらう期間も短くてすむ印象。
しかし、患者さんからは、「病院で薬をもらったけれど、あんまり効いた気がしない。今も、私は元気でいる。だから、あの薬は必要ないのに飲まされた」と解釈される場合もあるんじゃないのかしらん。

確かに、「これが教科書的に適切な診断・治療なのか?」というと問われると、自分も「うーん」と、ものすごく悩まざるをえない。過剰診断、過剰治療と判断されても仕方ないことは認める。
それ以外にも、第三者から批判されてもしかたがない部分もあるだろうし。「後医は名医」バイアスなんてのもある。

どちらの治療が正解だったかは、「神様だけが知っている」んじゃないかなぁ。

こういうのに、明確な答えと、答えの出し方がはっきりしていると楽なのかもね。
でも、楽かもしれないけれど、面白くないかも。なんてことも考えてみたり……



"Jesus I trust in you..." / Art4TheGlryOfGod

2013年11月25日月曜日

「感謝」を媒体とした共依存関係 (チラシの裏)

数日前に、医療者が「患者さんに感謝されることをモチベーションとして、仕事をすること」が、TwitterのTL上で話題になった。以下は、そのことから思いついたことの連続ツイートを、まとめ直したもの。
冒頭の話題からは、内容がちょっとズレている。




患者さんの感謝だけをなるべく得るように対応をする」医療者というのは、何人かみたことがある。本人や患者さん、そして周囲の人にもそういった意識はないかもしれない。
だが、その人たちの行為を、自分は今でもそう解釈している。

患者さんと医療者の間で、「感謝」を媒体とした共依存関係と言えばいいのか。
こういった関係は、当然歪みがあるわけで、そのツケは、共依存関係の二人の周囲の人間が払うことになる。おまけに、その関係は長続きしないで、破綻することが多い


とはいえ、感謝というのは上手く働く可能性が高い代物であることも事実。

だから、「感謝のコントロール」というものを考えたほうがいいんじゃないだろうか…… 

これについては、自分自身への後日の課題とする。
やれやれ。


以上、まとめ直し終わり。

多分、折に触れて思い出したり、考えなおしたりする内容だと思うので、ブログにメモ代わりとして残しておくことにしたわけで。

チラシの裏、ごめんなさい。


Cat Shots / ericrichardson



2013年11月22日金曜日

当たり前みたいだけれど気付いてないこと




自分たちが仕事で何気なくやっていることが、外部の人間から見たら奇跡か魔法のように認識される。
そういう状況って、少なからずある。


普段何気なくやっている自分のやっている仕事。
その仕事が、自分にとって、その仕事の意味は何なのか
部外者の人は、仕事のどの部分を見ているか結果のどの部分を評価しているのか
そんなことを意識してみるのは大切。

そういった意識から、自分の仕事あり方を、違った意味合いを持って認識できるかもしれない。
そしたら、新しい面白さを見つけて、面白く仕事ができるんじゃないかしらん



AusAID Counsellor for Samoa, Anthony Stannard meets with grandmother and small business owner Keka Misa to find out how AusAID-funded prepaid electricity meters are helping her to manage the household budget. / Australian Aid photo library



逆に、部外者が、奇跡を起こせるものだと勝手に信じて要求してくる場合も少なからずあるのも確か。
こういった場合、相手の間違った(?)認識を修正するというか、ずらしていく方法やテクニックも考えておきたい。

飲み屋のお姉さんに、「あらっ、精神科医の先生なんですか?じゃあ、私の心もわかりますよね」というのは、お酒の場でのバカ話として十分成立する。
でも、診察の場で、「精神科医なんだから、私の気持ちがわかって当たり前でしょう!」という展開の辛さといったら……


Angry / kenkwsiu





2013年11月13日水曜日

癌への治療の理解も必要だが、精神科の治療も理解して欲しい

Twitter経由で、次のようなブログ記事を見かけた。

すい臓がん患者さんが語る、近藤理論への怒り|Dr.和の町医者日記


癌の治療については、非常に大切な意見が語られているので、一読することを勧める

ただ、それとは別に、どうしても看過できないことがあったので、それについて書いておく。

文中に、この患者さんが友人の医師から治療を勧められたというエピソードがある。その中で、「措置入院」という言葉が用いられている。
これに関しては、さすがに眉をひそめざるを得なかった……

非精神科医療者が、「(身体的)治療に同意しない患者さんなので、精神科に措置入院をさせて……」と考えることがある。
これは、自分でも依頼されたという実体験がある。だから、この記事の内容も、「物の例えの話として」スルーすることができなかった。

措置入院という入院形態は、精神科治療で行われる治療の中でも、最も強制力の高い入院。
だが、あくまでも「精神疾患に対する治療」が前提
対象となる人が、精神疾患ではない場合には、適応もへったくれも無いわけで…… 

逆に(?)、統合失調症などの患者さんの中には、身体疾患(それこそ、”癌”も含まれる)の治療が必要であることを十分に判断できず、治療自体を断ってしまう人も少なくない。
そういった患者さんは、手術などの適切な治療を受けないと生命に関わる状態であっても、身体科の医療側から治療ができないと断られることがある。
治療に対する本人の同意がないと治療ができないという理由であり、それも理解はしている。

ただ、措置入院を必要としないレベルの精神疾患の患者さんでも、必要な身体的治療を受けることができなくて、命を縮めてしまうケースは少なくない
こういった現実もある。
精神科医療者は、その度に、独特の悔しさというか、やるせない気持ちを味わうことになる。



Worried and solitarian / pedrosimoes7


発端となったブログ記事にでてくる「友人の医師」。
この人が、精神科医であれば、ジョークとしては筋が悪いなぁと思う。
非精神科医であれば、精神科医療に対する理解が乏しい医療者だなぁと思う。
記事のための演出部分であれば、この部分はいただけないなぁと思う。


「措置入院でもさせて、手術を受けさせるつもりだ」といった類の考え方は、精神科医療の現状とは、全くそぐわない内容なんだよね

その点は、理解していて欲しい。


ANGER! / Amy McTigue




2013年11月8日金曜日

生誕129周年って、無理矢理感あるよね


Google先生によると、今日(2013年11月8日)は、ヘルマン・ロールシャッハ生誕129周年になるそうで。TwitterのTLも、そのネタがチラホラと。

本当は、自分のツイートのリンク先は、@psypubさんの改定前のツイートなんだけれど、まぁいいか。


ロールシャッハ・テストになると、流石に自分ではやらないというか、できない。
検査を依頼した心理士の人から、テスト結果の解釈を教えてもらうのが、ものすごく楽しみ。

でも、実は、解釈よりも、生データ(それぞれのカードで、どんな風に答えたのか)を教えてもらうほうが好きだったりする
生データを見ながら、患者さんの心理状態というか、どういった心の働き方をしているか、自分なりの仮説を組み立てることができるから。

それぞれのカードに対する答え方で、その患者さんがどんな風に考えていたのか、どんな精神状態になっていったのか等々、自分の中で仮説を立てながら、診療場面の患者さんの所見と照らし合わせていく。
そして、見立てや診断を修正していく。
こういった時に、精神科の仕事って、面白いなぁって思うだけれどね。


時には、発症間もない微妙な段階の統合失調症なのか、一過性の心因反応みたいなものか、それとも感情障害なのか、微妙な診断を考えることがある。
そういった時には、案外ロールシャッハ・テストとか、バウム・テストとかが有効なのかもしれないなぁと思ったりして。(あくまでも、個人の感想です)


I've got a bad feeling about this / Falashad



追記
当初アップした記事中に、不適切な画像が使われていると指摘がありました。
その指摘に従い、該当の画像を削除しました。
誠に、申し訳ありませんでした。



2013年11月6日水曜日

ふと思いつくことは、気に病まなくてもいいのでは



アルキメデスの”エウレカ”じゃないけれど、「あっ、こういうこと思いついた、俺ってすげぇ!」って思うようなことを閃くのは、朝起きた後にシャワーを浴びている時が、わりと多かったような気がする。
(そうか、最近朝にシャワーを浴びていないから、ダメなのか……)

他にも、自分でノートに書き出しながら色々と考えている時、ふと全く別のアイディアがポンと浮かんでくることもある。
時には、そっちのアイディアが面白いこともあったり、ノートの書き始めと終わりでは、全く話が違っていたり。

一つのことを考えているつもりでも、ふと違うことを思いついてしまう。そういった経験は少なくない。



« Eurêka ! » / Adrien Leguay



ずっと同じことを考え続けていると、思考が硬直化して、視野が狭くなり、袋小路に迷い込んでしまいがちになる。
周囲の環境を変えたり、体の状態をリラックスしたりして変化をつけることで、思考の硬直化が緩んで、新しい視点からの発見が出てくるんじゃないかと。

一つのことを考え続けるのは、効率が悪くて、思考の体力を無駄に浪費するので、お勧めではない
ただ、全く別のことを考えていると、少し前に考え続けていたことについて、閃きが生まれる。それは、むしろ脳の働きとしては自然の流れじゃないかと。

だから、仕事のこととか、前から抱えている悩みとか、そういったことをリラックスしている時に、ふっと思い出してしまうことは、必要以上に気に病まなくてもいいんじゃないかな

閃きの扱い方は、人それぞれのやり方になるだろうね。
閃きを逃さないように、すぐさまその方向で考えを深めていくのもいいし。簡単に、メモするだけでもいいし。また、閃くことを期待してスルーする人もいる。
大切なのは、思考の体力を浪費しないことかな。このあたりのマネージメントも大切。


Archimedes / [Duncan]


2013年11月5日火曜日

「ウソ?」っていう切り返し


バラエティ番組のワンシーン。
女性「◯◯どうだった?」
男性「うん、楽しかったよ」
女性「ウソ?……」

最後の「ウソ」って、挨拶のような、むしろ肯定的なニュアンスなのは理解できる。


でも、こういう時に「ウソ?」っていう切り返しの癖がある人は、ちょっと注意した方がいいよなぁと思いながら見てた。


Terrace house porch / The Shopping Sherpa

(写真は、テラスハウスで検索)


会話でのやりとりをする時。
頭の中で考えぬいた内容は口にする時にも、意識している部分が多い。だから、失敗することは少ない。
一方で、何気ない切り返しとか、相槌とかの場合、思わぬ癖が出る時がある。これは、ちょっと怖い。


これに対しては、下手に癖を治そうとすると難しいかも。大事な場面では、やり取りの一つ一つに、些細な事でも気を払うようにするのがいいのかも。


それとは逆に、一見意味ありげな一言であっても、相手にとっては脊髄反射レベルの何気ない一言だったりすることもある。
その区別をつけるには、相手の思考パターンというか、癖みたいなものを把握することに、少し気を払うのもいいかも。

深読みするべきことか、聞き流してよいことか…… これを判断する能力が、いわゆる”センス”と呼ばれるものの一つ

この手のセンスを高めるには、経験を積み重ねることが一番なんだよなぁ。
ただし、意識していないと、”経験値”として加算されない。


Inspire Conference Day 3 / Jeffrey

じゃあ、どうやって意識できるようにするか。そのやり方を試行錯誤するのも、面白い。
そうじゃないかしらん?


2013年10月30日水曜日

上手く薬を減らすことができるのには、理由がある

薬は減らせない - 精神科医の本音日記:

'via Blog this'

上のリンク先のブログを読んで、ちょっと考えてみた。

そんなに投薬量が多いつもりもないし、多剤併用の薬物療法の患者さんの減薬をしたがる精神科医のつもり。

でも、このブログ記事に書かれている通り、統合失調症の患者さんに投薬されている向精神薬を減量する時は、慎重にならざるを得ない



Medical Drugs for Pharmacy Health Shop of Medicine / epSos.de


統合失調症の薬物療法。向精神薬の内容を決めていく時には、患者さん自身が自分の病気をどれくらい理解しているか。その理解の程度が、けっこう重要なポイントになる



少なからずいる病名を告知されていないケース。自身の病気(病名)を受け入れができていないケース。こういった場合、どうしても投与量が多くなりがち。
自分自身で症状をコントロールするところを、薬に頼る(?)ことになるから。

例えば、幻聴。
「自分がそう思っていないことでも声として聞こえてくるのが、この病気。だから、そういう時にはゆっくり休もう」と思う患者さん。
「人の声が聞えるのが嫌なので、消えるように薬をください」と言う患者さん。
ザックリとした例え方だけれど、この二人の患者さんでは、薬の量が違ってくるのはわかるよね。

病状を理解した上で、治療の目標をどこに置くか。それによって、薬物療法の内容も変わってくる



Explanation / QuinnDombrowski



理解と目標設定の話し合い。この手順が不十分のまま、向精神薬の投与量だけを考えても、上手くいかないことが多くなると思うんだけどね。






2013年10月23日水曜日

語りたくなるけれど、「面白い仕事」の話は難しい



業界あるあるネタであったとしても、ネットで発言する限りは、オープンな発信になる。
例えクローズドな環境で発言していたとしても、ネットという媒体を使うからには、何時でもオープンなものになるという危険性(?)を孕んでいる。
このあたりが難しいところ。



2013 Policy Talks at the Ford School lecture by Helene Gayle, president and CEO of CARE USA / University of Michigan's Ford School



ここ最近、Twitterでのツイートが激減していた日が何日かあった。
イレギュラーな仕事が入ったから、という単純な理由。
ただ、そういったイレギュラーな仕事で忙しかったということだけで、ツイートが減ったわけではない。
こういったイレギュラーの仕事って、仕事としては「面白くて、やりがいのある」仕事であることが多いん。ただ、その「面白さ」の取り扱いは注意が必要なので、ツイートは自粛していた。自信がなかったから

「面白くて、やりがいのある仕事」に関してツイートしたとする。
多分、医療関係者のアカウントからは、”あるある”ネタとして解釈してくれたり、「精神科医って、そんな風に考えるんですね」みたいなリアクションが返ってきたりすると思う。
それは普段のツイートのリアクションから十分に予想できる。
ただ、逆に、「こんなツイートは不快だ」と感じるアカウントが一定数でてくることも想定される。特に、医療関係者以外。

この状況を考えると、「面白い仕事の内容」は、うかつにつぶやくわけにはいかない。面白ければ、面白いほど不快に感じる人が多くなる可能性が高くなるから。
不快に感じる人を不必要に増やすのは、本意ではない。



Brent Burns – Customer Retention Presentation – photo 12 / James Jordan


とはいえ、自分の仕事の「面白さ」を発信したいなぁという気持ちがあることは変わらない
そうじゃなきゃ、Twitterとかブログとか、いろいろとやったりはしない。
仕事で感じた「面白さ」は、オープンなものとして発信することに耐えられるように、加工する。この加工作業ををサボってはいけない。

自分の感じたものを加工して発信する能力は、これからの時代、いろいろと問われるんだろうな。

自分の加工能力は、まだまだ力不足。それは、いつも痛感している。

やれやれ。
頑張らなければ。



追記

このブログを書いていて思い出したのは、ヤンデル先生Facebookページの過去記事。

『戦う○○』を自称する人間の戦いは主に舌禍による争いである

この記事の内容は、折に触れて思い出すようにしている。それくらい、大事な内容。お勧めの記事である。





2013年10月16日水曜日

アルツハイマー型認知症の「とりつくろい」

アルツハイマー型認知症の患者さん。会話の中での「とりつくろい」が、症状のポイントの一つ。
実際に患者さんと会話している様子を見せた後、「あのやりとりが、とりつくろいだね」って説明すると、すぐに理解してもらい易い。
でも、言葉で説明しようとすると、案外難しい。

アルツハイマー型認知症の「とりつくろい」って、”底の浅い否認”や”単純な誤魔化”とは違っている。
病識のない記憶障害に基づいた、独特の”誤魔化し”といえば良いのか……

「とりつくろい」は、その人の元々のパーソナリテイに修飾される

同じ「とりつくろい」でも、”微笑ましい”ものもあれば、時には”いけすかない”ものもあって、本当に面白い。



"Pensionati" are the smile of Mattinata's streets / StoryTravelers


自分がアルツハイマーになったとしたら……、きっと洒落にならない「とりつくろい」連発するはず…… orz

2013年10月14日月曜日

非定型抗精神病薬の治療で目指すこと

非定型抗精神病薬を使った統合失調症の薬物療法。
一番の肝は、本人に病識を持ってもらうこと
そこを怠ると、薬物療法もグタグタになるリスクが高くなる。

抗精神病薬で、「幻聴をなくす」ことではなく、「症状があっても、患者さん自身で生活を上手くコントロールできるようになる」ことを狙う。

確かに、薬物療法によって”幻聴などの症状が消えました”と話される患者さんもいる。
でも、全ての患者さんに「嫌な症状が消える」ことをゴールを設定してしまうと、薬物の量が増えてしまうという落とし穴に陥りがちになる。

統合失調症である患者さん自身が、「生活の質がより高くなる方法としての治療」という意識になってくれると、”お互いに”治療が”楽”になりやすい。

「まったく症状がなくなって、以前のような自分に戻るための治療」を追い求めがちになるんだけどね。



Old McGraw-Hill Gang / harbortrees



非定型抗精神病薬は、定型……に比べて、魔法のように病気を改善してくれる薬と勘違いすると失敗しやすい。
あくまでも、従来の薬に比べて副作用が発現しにくい薬として捉えることが大切。

などと、ロートル、老害になりつつある、場末の精神科医の意見でした。
多分、医者によって色々な考え方、もっと上手いやり方があるはず。知りたい人は、自分で確認をしていくように。悪しからず。 




(追記)
「統合失調症がやってきた」では、ハウス加賀谷氏が、ある薬で副作用が改善したエピソードが書かれている。
本の中でも述べられているが、薬の効果には個人差があるので、そこは注意が必要。



2013年10月9日水曜日

Twitterで、愚痴ゼロデーを実行してみるという話



いつものヤンデル先生のツイートからの話で、申し訳ない。

これって、やってみようと思うと案外難しいルール

でも、見ていて面白いと思えるアカウントは、このルールで基本的に運用されていることが多い。特に、いわゆる公式/広報アカウントは、その傾向が強い。

個人アカウントでも、ヤンデル先生のつぶやきのように、無理矢理にでもいい愚痴をゼロにした、楽しい内容で、100ツイートくらいしてみると面白い。きっと、良い修行になる



smile is universal / jessleecuizon



修行が終わった後、いつものように、ルールから外れた”楽しくない内容”をツイートを一つしてみるといいだろう。
多分、以前よりも多くのアカウントに届いて、反応も多いはず。

いや、そのツイート自体を見なおしてみることをお勧めする。
きっと”楽しくない内容”であるはずのツイートは、以前とは違った雰囲気のツイートになっている可能性が高い。不思議なことに。
これは、とっても面白い体験だと思う。

まぁ、自分も実際には、やったこと無いから、本当にこうなるかどうか、保証しないけどね :-p

そして、これは”決して、愚痴とか、悪口とかを考えないようにしよう”ということではない。
そういった気持ちになるのは、人として(半ば)当たり前で、しかたがない。
でも、多くの人との交流がある場での振る舞いを気をつけてみようという話
そう、解釈している。

ネットでよく出てくるマザー・テレサの言葉(?)じゃないけれど、つぶやきをコントロールすることで、自分の考え方も変わってくる
そういうこともあると思う。



ちなみに、マザー・テレサの言葉は以下のとおり。(ただし、ネットでよく見かける文章で、真偽は確かめていないので、そのつもりで)

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。



Mother Teresa / mrsdkrebs

世の中、ルール通りに話が進むことって無いよね




というツイートをみて、リンク先のいわゆる”まとめサイト”も、ちらっと読んで確認。
新型鬱病の症状ワロタwwwwwwwwwwwwwww:ハムスター速報: 'via Blog this'

先日も、このリンク先を見たと思われる「新型うつ病」絡みのツイートを見かけた。
ということで、「新型うつ病」に対する自分の考え方を、Twitterでつぶやいたので、こちらにも書いておく。


2008 Write-On Materials / Desiree N. Williams



流石に、カルテに「新型うつ病」と書いた記憶は無い

確かに、
「うつ病」とは診断しがたく、
「適応障害」にすると安易な判断に思えたり。
かといって、「病気ではありません」と突き放すのも適切とも思えない。
どこに、落とし所をつけるか、迷うケースは時々ある。


「いろいろあるけれど、まぁ、俺の判断に任せておけ」という治療の居場所が無くなっている

操作的診断基準による診断と、そこから導き出される治療方針という流れを意識し過ぎると、基準にピッタリと当てはまらない状況に、落とし所が見つけにくくなる。
そんなモヤモヤとしたケースに落とし所をつけようとして、でも、操作的診断基準の文脈に判断が引っ張られた結果、「新型うつ病」みたいなモノが生まれたような気がする。

蛇足になるが、「非定型うつ病」の存在も、話をややこしくしたと思ってる。





2013年9月18日水曜日

「黒い犬」をゆるキャラにしたら


ウィンストン・チャーチルは、双極性障害で、自分のうつ病の症状を「黒い犬」と名付けていた。
病気の症状に限らず、自分の性格の特徴とか気質とか、そういったものを「キャラ化」してしまう
これは、自分の心を上手く扱うの一つのやり方ではないかと、試行錯誤。



slobber dog / Nesster


チャーチルの例で考えてみる。
「黒い犬」をいっそのこと、ゆるキャラ化してしまう。ゆるキャラなので、ちょっとブラックなところがある方が、むしろキャラが立つ。
「きょうのわんこ」ならぬ、「きょうの黒い犬くん」みたいな扱い方を想定してみたり。


Handknit Felted Black Dog / Barking Dog Designs



キャラ化する作業には、ある程度手間をかけて、練り込んでいく。ここが一つの肝。
自分自身を見つめなおして、長い時間お付き合いできるキャラを作る。その方が、上手くいきそうな感じ。
そうでなければ、逆に思いっきり曖昧なキャラにして、長い時間をかけてつくり上げるのもアリかもしれない

自分がお付き合いしていくキャラを作り上げる作業。
具体的な例としては、いつも勉強させてもらっている病理医のヤンデル先生が、自分の使っている「りーちゃん」というキャラクターをぬいぐるみにする時に書いていたイラスト。こんな感じで、キャラを練り上げる。



思考を具現化する能力がある人っていうのは、とてもうらやましい。
自分には絵を描くスキルが無いことが、本当に悔しい。

かたや、時間をかけてつくり上げる例。
市販のぬいぐるみをもらった子供が、まず名前をつけて、話しかけていく。そうやって遊んでいくうちに、いつの間にか、そのぬいぐるみに性格が設定されていて、生き生きとした存在として成熟していく。最後には、ぬいぐるみは、その子供にとっては、唯一無二の存在になっていく。
そんなキャラの成長の育て方もあると思う。

ゆるキャラ化には、もう一つ意図がある。
そのキャラが、”最後にはそれなりに、上手くいく”というストーリーの主人公に、そのキャラがなること。
それを考えると、「重い感じの」キャラではなくて、”ゆるキャラ”という「軽さ」がストーリーを転がしやすい。
そういった物語作りについては、また改めて考えたい。

それだけではなく、自分自身の内面のキャラ化とその扱い方については、もう少し考えていこうと、画策中。

やれやれ。 

2013年9月16日月曜日

「統合失調症がやってきた」 ハウス加賀谷 松本キック 著 : 読後の第一印象



統合失調症の体験記としては、素直な内容。一般向けと言う意味でも、良書。




「素直な内容」。これは、当時の出来事や体験したことを、そのまま書いているという意味ではない。
それらを基にして、”伝えたいことが素直に伝わるように書かれている内容”という意味。

予想以上に、編集とか校正とか、手が入っているのではないかと勝手に解釈。
そういった作業がないと、これだけ、創り手の思いや伝えたいことが、理解しやすくならないんじゃないかと思うからなんだけれど……

筆者本人だけでなく、色々な人の関わりが感じられる。そういった意味での良書ですな。


素直に他人に勧められる、良い本だと思います。


2013年9月12日木曜日

チラシの裏: 信心があることは悪くないんだよなぁ

この歳になって、一般的な宗教に頼ってゆく人の心の一端が見えてきたような気がする。
今更感が半端じゃ無いんだけれど。

幼少時の躾として、それなりにまともな(?)宗教の価値観を身につけておくのは、自分の思っていた以上に大切なことに思えてきた。



お坊さんの袈裟が撮れなかった。。。 / masterq


信心に基づく考え方や習慣が身についていない状態で歳をとってから、将来に対する不安や後悔を(無意識に)感じてしまった時に、どうするか。
無理やり帳尻を合わそうとしたら、「信心をこじらす」リスクが高くなりそう。
良い師というか、きちんとした宗派の指導者に出会えれば、別なんだろうけれど。

こう考えていくと、コツコツと何かを積み上げていくスキルって大切なモノだと再認識。
8月末になって、終わりそうにない宿題のヤマを目の前にした子供に対する教育とか、躾っていうのは、案外大切だね。
コツコツ・スキルが必要とされる。その一方で、失敗した時に適度にやってしまった感があるけど、たかが宿題だから、リカバリーは十分効くから。

2013年9月11日水曜日

「死にたいって、考えたらダメ」という悪手


このツイートをみて、少し考えてみたこと。


うつ病などで、希死念慮を訴える人に対して、「あなたは、病気のせいで、そんなことを考えてしまっている。今は、考えたらダメ」というアプローチをしてしまうケースが、時々ある。
希死念慮で苦しんでいる人を目の前にした時に、「考えたらダメ」とか、「考えないようにしましょう」と言いたくなる気持ちは理解できる。
でも、こういった言い方は、わりと悪手だったりするので、注意が必要。

希死念慮がある状況で、「”今”死にたい気持ちになっている」ことは、患者さんにとっては、紛れも無い事実。
周囲の人間は、その事実を認めて共有する。それが大切。

「死にたい気持ち」を共有すると、「じゃあ、どうすればいいのか」、「間違った言い方をしてしまったらどうしよう」といった不安が、切実に心の底から湧き上がってきて、いたたまれない気持ちになることも、しばしば。
でも、それに耐えることが、「受容」であったり、「共感」であったりするかも

同じように不安に耐えている存在が傍にいること、それ自体が、患者さんの気持ちに届くものかもしれない。

「病気だから、そんな気持ちになるんだよ」という言葉は、患者さんに伝える言葉ではある。それと同時に、対応する側の人間が、自分の心の支えにするための言葉であるかもしれない。


Counseling / Alan Cleaver



こういうことを考えると、「今、この場所で起こっていること」という感覚って、大事なんだろうなと思い直しました。


2013年9月9日月曜日

「病識は無いけれど、病感がある」という記載


自分の場合、カルテに「病識」と「病感」を使い分けて記載している。
この違いについて、スタッフなどから、突っ込まれたことがないのだが、分かってもらえているのか、スルーされているのか。はたまた、そんなところなんて読まれていないのか……

「病感」は、自分が精神疾患かどうか理解していないが、自分自身で感じている不調とか、簡単な指摘で認めることができる不調みたいな、患者さん自身の感覚、という意味合いで記載。

「病識」は、患者さんにある程度疾患の説明をした状況で、現在感じている不調が病気や障害による症状である理解、という意味合いで記載している。

だから、「病識は不十分であるが、ある程度病感はあると思われる」なんて記載をしたりする。


「病識」や「病感」は、同じ患者さんでも、病気の状態によって変わってくる。
急性期になると、「病識」は吹っ飛んで、「病感」すら曖昧になることも珍しくない。

一方、「病感」は十分にあっても、「病識」にはなかなか至らない場合もある。こういうケースは、疾患をどれくらい受け入れることができるか、そこがポイントになる印象。



worried 心配しているな / jessleecuizon




「病感」と「病識」という観点から、治療での患者さんへのアプローチを説明すると、こういう流れになるか。

初発の患者さんの場合、多くの場合、「病識」はもちろん、「病感」すら曖昧である。

そこで、身体的に感じたり、気分として感じる「不調」を言葉にしてもらったり、行動の問題点を指摘して、共有していく。
そのやり取りの中で、自身の「不調」を「病感」として分かってもらえることが多い。

さらに、一緒に「病感」について考えていく中で、”「病感」が病気の症状であること”にまで、考え方を広げていく。

その段階になって、病気の説明をしていくことで、患者さんの「病識」を作り上げている。

おおまかに言って、こんな感じ。

患者さんと共に、「病識」や「病感」について認識を深めていく過程は、精神科治療の醍醐味の一つじゃないかと思うくらい、やりがいのある作業だと思っている。


Conversation / Search Engine People Blog



ところで、自分の周囲の治療者は、このあたりの言葉の使い方が、どうにも曖昧だったような気がする。
というわけで、この内容は、”あくまでも個人の使い方です”的なところがあるので、悪しからず






2013年8月26日月曜日

今の治療方針は、何年後まで有効なのか……



このツイートをみて、ふと思ったこと……

経済は常に成長し続けるものだと思っていて、今になって生活設計の変更を迫られている人って、多いはず。
で、精神病院に長期入院になっている患者さんとその家族にも、同じような問題が当てはまるんだよな。

精神病院に15年以上入院しているような患者さん。入院当時は、治療の方法の幅も限定的だったし、大きな医療方針としても囲い込み推奨であったわけだし。
「このままでは、社会に出ていくのは難しいから、ずっとここでみていてあげよう」という治療は、悪いものではなかったところがある。
一方で、その後、大きく変更された医療方針自体は悪いものではないと思っている。
でも、10年以上前の約束を信じて生活を組み立てた家族にとっては、今になって「これは、無茶な住宅ローンの組み方しましたねぇ」と言われる以上のものがあるからなぁ……



Calculator / 401(K) 2013



かたや、治療自体の問題点として、「多剤併用によるマイナス」が取り上げられたりしている。
でも、治療開始時に定型抗精神病薬しかなかった状態で10年以上続いていた治療を変更していくのも、大きなパワーがいるわけだし、変更したから必ず有効であるというわけでもない。

今現在、スタンダードとされる治療のあり方。
これですら、10年後には、どう評価されるものかわからないわけだし……
こちらとしては、まず現時点でベターを目指していくしか無いのかしらん。やれやれ。

涙もろくなったのは、歳のせいかしらん


8割の人を泣かせる感動ドラマと、8割の人を笑わせるコメディ、どちらかを作れと言われたら、多分前者を選択する。
人の感情を刺激する場合、「笑わせる」よりも、「泣かせる」ほうが、ハードルが低いんじゃないかと思っているから。


自分自身の感性を磨くための効率的なやり方は、”良質なモノを経験していくこと”だと思っている。
「美味しんぼ」にしろ、「神の雫」にしろ、主人公は庶民のふりをしているけれど、よくよく考えると、高度な英才教育を受けている。美術品とか、食事とか、ワインとか、良いモノに触れて、きちんと解説をしてもらった幼少期を過ごしている。あれだけの才能があって、当たり前なくらいに。

「美味しいものがわかる」というのも感性なら、「面白いものがわかる」、「涙が出るくらい感動するものがわかる」というのも感性の一つ。
ならば、それぞれの感性というか、アンテナみたいなものを磨くのなら、それぞれに良質のものに触れていったほうが効率的ということになる。

ただ、「泣き」には注意が必要
「泣かせる」ことはハードルが低い。だから、食事でいう「ジャンクフード」みたいなもので、自分自身の感性が、それなりに満足してしまう危険性が高そう
それって、何となく恐ろしい。

毎年恒例の某テレビ番組の一大イベント。見ないでおこうと思ったけれど、結局チラチラと見ていた。
適宜放送しているコンテンツをちょっと見ただけでも泣いちゃってしまう自分がいた。歳とって、涙もろくなったと痛感。
しかし、ふと我に返ると、「何故、泣いているんだろう」という、ちょっとした違和感が何処かに存在していた
一流の料理評論家とか、ソムリエとか、そういった人が、一流でないものを口にした時に語る、嫌な感じって、こういった違和感みたいなものなのかなぁと思ってみたり。


そう考えると、自分自身の感性に与えるモノも、少しは吟味したほうがいいのかしらんという気がしてきた。
少なくとも、「ジャンクフードばかり食べているのに、味に関して講釈をたれる山岡士郎」にならないように、少し気を使ってみようかしらん。

「負けないで」を何となく脳内再生しながら、考えてました。

やれやれ。








2013年8月11日日曜日

常に眼を離さないでいてください……



認知症男性、線路に入り死亡 電車遅れで遺族に損賠命令  :日本経済新聞: 「男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない」

上記リンク先は、「常に介護が必要」とされる「認知症高齢者自立度4」と診断されていた、91歳の認知症の男性が、線路内に立ち入り電車と接触した死亡事故。JR東海が、男性の家族に損害賠償をしたところ、地方裁判所が全額の支払いを認めた。という記事。(もしかしたら、リンク先は消えているかも)

記事の中では、裁判長が、「男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない」と判断したことが書かれてあった。



”「常に介護が必要」とされる「認知症高齢者自立度4」”というフレーズ。
このフレーズを、家族、医療者、司法の三者が、それぞれ、どんなふうに解釈していたか
それが、気になった。 



もう少し具体的に、考えてみる。
例えば、”「男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない」とした。”とあった。



i am watching you / Darwin Bell


慣用句としての「常に目を離さない」と、文字通りの「常に目を離さない」とでは、大きく意味が違ってくる。
実際、自分自身も、書類上の決まり文句であったり、患者さんの状態によっては家族への説明で、「常に眼を離さないように」という類のフレーズを使うことがある。
注意が必要であることを意味するために使う場合もある。家族に対して、現実的には難しいことを分かってもらい、入院治療への説明の導入に使う場合もある。

今回の場合、「常に目を離さない」というフレーズは、どんな立場で解釈したり、されたりしていたのか……

ところで、発達障害関係の話題で、「当事者が、言葉の裏の意味を解さず、文字通りに解釈してしまって、生活や職場でトラブルのもとになることがある。だから、障害の特性をよく理解しましょう」といった問題が、いろいろな形で取り上げられることがある。
それくらい、自分たちの社会って、良い意味でも悪い意味でも、「言葉の裏の意味」が大切だったと認識していたつもりだった。違ったのかしらん……

もちろん、司法の論理、世間の論理、医療の論理、そのほかの論理。それぞれに、微妙に齟齬があることは分かっている。
この齟齬を少なくするために、意見のすり合わせを、これまで以上に意識して、手間をかけないといけなくなったということかな。
これが、なかなかに難しい。

分かってもらえるまで説明の回数を増やす。文書化する。承諾のサインを得る。……などなど。
具体的には、こういった作業を増やしていくことになるはずだし、そうせざるを得ない。
正直、やれやれという気持ちになりますな。


Last station nursing home / ulrichkarljoho



(追記)
この判決のような方向に話が進むと、問題行動があるような人に対して何日も維持できる、「常に目を離さない」という理想的なサポート体制というものをはっきりとさせないといけなくなる。
誰かが具体的に作り上げて運用させることが必要になってくるのかも。
誰がやってくれるんだろう……
(最初に、Twitterでつぶやいた時に、”この裁判長に、介護を実際にやらせてみろ”みたいな意見があった。自分は、そうは思わない。裁判長も、司法の論理で考えて判断しただけのことであるから。判断の良し悪し(?)と、理想の提示は、別の話だと思う)



2013年8月9日金曜日

あくまでも、”なんちゃってCBT”での話

こういったつぶやきをみて、ちょっと思ったことのメモ


自分のやっているのは、”なんちゃってCBT”なんだけど。
こういうのは、ある程度長期的にやれるかどうかがポイントじゃないかと思っている。
ダイエットと一緒で、やり始めた最初の時にそれなりの効果がでてくる。それに油断して中断すると、元の木阿弥みたいになりがち。


栄養士、トレーナーや医師が、長期間つきっきりで管理してくれるダイエットならば、成功率もかなり高いはず。でも、誰もがそういったダイエットが出来るわけもない。



Get Slim Fast With These 7 Simple Tweaks - Eat Real Fruit As an Alternative to Drinking Fruit Juices / UrbaneWomenMag


ダイエットに必要な理論をそこはかと知ってはいる。
その上で、”もう失敗しない、◯◯ダイエット”という健康番組を見て、それを信じながら「どうしたら、やせますかねぇ?」という相談にくる人を対応する。

こういうのが、自分の仕事の立ち位置だとは思っているんだよね。




2013年8月2日金曜日

”頭の中でわかっている内容は”、けっこう危うい


現実的処理能力が低いことに自覚のない患者さんと、思い込みがちょっと強いコメディカルのコラボに、頭を悩まされていた。
まぁ、いつものことなんだけれど。
患者さんの個人情報の問題があるので、具体的な内容は書けない。
でも、色々と考えることはある。



y2.d40 | worry lines / B Rosen


思い込みがちょっと強いコメディカルの人は、そう珍しくもなくて、往々にして記録が上手くなかったり、疎かであったりする人に多い印象。

例えば、
「この件、どうしたらいいんですか?」と聞かれる。
「じゃあ、確認したいから、その時の記録を見せて」
「まだ、書けてません」
「えっ、それって昨日のことでしょう? 記録してないの?」
「いや、先生に相談してから、書こうと思ってました」

こんなやりとりから、始まった相談というのは、なかなかまとまらない。
それは、客観的な情報が乏いし、こちらからの提案も通じにくいことが多いから。
そして、その人の頭の中だけで、一つのストーリーが出来上がってしまっているから。

何らかの対応をしたら、まず記録をする。そして、記録に基づいて相談。相談した結果をまとめて、また記録する。
この手順を疎かにしている理由を聞くと、「頭の中に覚えているし、わかっているから大丈夫」という答えが返ってくる。

”頭の中でわかっている内容は”、けっこう危うい
それは、柳の下の幽霊であったり、裸の王様の服であったり、実態はなくて虚像に近いものであることが多い。
そもそも、頭の中というのは、結構混沌とした闇の世界だったりするわけで……



メモやノートに書き出すこと。

誰かに話して、きちんと説明すること。

こういった作業は、思っていることを具現化する。
言い換えれば、頭の中のわけのわからないモノを闇の中から光の当たる所に引っ張りだして、はっきりとその正体を見定める手続きになる。
正体をきちんと掴むことが出来れば、当然、上手く対応できることになる。
記録することの大切さは、こういったところにもある。



Taking notes / @boetter


だから、柳の下の幽霊と格闘するのは勝手だけれど、お願いだからこっちを巻き込まないで欲しいなぁ。やれやれという気持ちになりますな。



2013年7月29日月曜日

「美味しくいただきました」の原点


Twitterで、よくつぶやいている、「美味しくいただきました」というツイート。
例えば、こんな感じ。
このつぶやき。思った以上に、評価していただいている。
先日のヤンデル先生とのツイキャスでも、話題の一つとして取り上げられたりもした。

「美味しくいただきました」ツイートは、実はこのリンク先の記事に大きく影響されている。

新潟県中越地震の現状をどこよりもリアルに伝えたブログ――「食べたものを淡々と記録するよ」(2003年~2006年)|jp.blogs.com|おもしろブログ記事のまとめサイト


ヤンデル先生とのツイキャス対談では、長くなりそうだったから、話さなかった。申し訳ない。



このコンテンツの面白さは、定点観測の面白さ。


このブログと比較すると、自分の「美味しくいただきました」ツイートは、上っ面の真似事なんだろうと、忸怩たる思いになる。


もちろん、Twitterレベルでは、いろいろとやっていることを真似たり、真似られたりするっていうのは、自分としてはアリだと思っている

当然、他人が真似をしたり、批判をしたりするのも自由。

それは、自分にとって、Twitterって「対話」の世界だから

うん。そういうこと。

2013年7月17日水曜日

チラシの裏 : 妄想の作られかた

頭の中には、現実に起こった複数のエピソードの数々が、記憶としてストックされている。

「印象深いもの」という基準で、記憶の中から、ランダムにいくつかのエピソードを頭の中で選ぶ。そのバラバラのエピソードが一連の物語になるように、無理やりストーリーを作る。

頭が苦心惨憺して作り上げた結果、妄想という名のストーリーが生まれ、ストーリーを支えるための世界も、同時に生まれてくる。

そのストーリーや世界は、膨大なエネルギーを注がれて作られたものだから、当然、本人にとって受け入れやすくて、他人からの修正を許さない。

「事実の集まりであっても、(その人にとっての)真実は一つではない」

妄想については、こういったスタンスで、自分の中で理解している。




アルツハイマー型認知症の患者さんの診察をしながら、やっぱりそうだよなぁ、と再確認していました。




2013年7月15日月曜日

きちんと「統合失調症」と診断しにくい患者さん


統合失調症の軽症化と、社交不安障害の診断の拡大化によって、過去と比べて、きちんと統合失調症の診断がつけられないケースが増えているんじゃないかと考えたり。
抑うつに対して非定型抗精神病薬が使われやすくなった展開が、この状況に拍車をかける気もする。

診察の段階では、積極的に統合失調症を疑えない。かといって、不安が惹起される状況や不安の内容が、どうにも神経症圏っぽくない印象の患者さん。
バウムテストをしてみると、やっぱりどこか違う。
そこで、抗精神病薬を使っていくと、抗うつ薬よりも、治療の手応えがある……
やっぱり、統合失調症かしらんという気持ちになってくる……


こんな患者さんの場合、どうしても「キレイでない」治療になりがち。


なによりも、本人家族への説明が難しくて困ってしまう。
診断の根拠が曖昧なわけだし。まさか、「メジャーが効くから、統合失調症です」という説明をするわけにはいかんし……
「確実ではありませんが、統合失調症の可能性も考えられます」と説明したら、それから受診が途切れたケースも、幾つか経験。



ambiguous / Kalexanderson


こうなると、「目の前の患者さんの症状を軽くする」ことを、最優先の目標にして、診断の曖昧さを飲み込んで、ある種の「ごまかし」を使いながら、治療継続を図る

これが、自分の手の届く範囲でベターなやり方かなぁ。やっぱり。

異論は、一杯でてくるだろうね。やれやれ。




2013年7月11日木曜日

チラシの裏: 「先生、赤玉じゃないと眠れないんです」と詰めよられたなぁ……


きょうクリいんちょうブログ : 絶対処方してはいけない薬、それはベゲタミン。: 'via Blog this'



上記のリンク先ブログを読んで思ったこと。(いつもの連続ツイートのまとめ直しです)


「絶対に、○○してはいけない」系のタイトルは、まぁアレなんだけれど……


ベゲタミンを積極的に使うとしたら、自分よりも年齢が上の世代じゃないかと思うのだが、違うのかしらん。
過去の治療の流れから、使わざるを得ない状況というのは、少なからずありはするが……

ベゲタミンに慣れてしまった患者さんは、まだ少なからずいる。
そういう患者さんに対して、以前は合剤になっているものを、バラバラに処方しなおして、徐々に減量していくとか、いろいろと調節を試みながら、ベゲタミンというか、フェノバルビタールをなくすことをやっていた。
それでも難しいのは、「赤玉じゃなきゃ眠れない」という固定観念が強い場合。統合失調症の患者だと、なおのこと。

他の人は、どうしていたんだろう?

こういった固定観念に対する扱い方の情報が、あちこちで発信されるといいんじゃないかと思っている。


こういうのって、面白くて、勉強になると思うんだけど

2013年7月10日水曜日

躁状態の治療で、「裏切り」を感じる時

双極性障害で、躁状態に振れた状態で入院になった患者さんの対応。

治療開始した後、思いの外、治療に協力的になってくれることがある。これは、治療開始してから、早い時期に多いような印象。
その時に、”あぁ、この患者さんは、わりと病識があるんだな”と思いがち。
ところが、その気持ちが、後から裏切られるように感じることは、少なくない。



これは、躁状態の患者さんが、ちょっと落ち着きかけた時は、「気分高揚を伴った同調性」が発揮されることを考慮していないのが敗因。

患者さんの方が、治療者の働きに対して、ある種「気を利かせて」同調してくれているのに、それを治療側が都合よく解釈したにすぎない。

この段階から、治療が進むと、気分高揚が治まってくる。それは、症状が改善しているわけなんだけれど、この時には「治療による不自由さからの反発」が前面に出てくる。そして、治療への抵抗を示すようになったりする。
すると、「あんなに、こちらの言うことを聞いていてくれたのに、今は勝手なことばかり言ってくる」と、「患者さんからの裏切り」みたいなものを感じてしまう。


Confused / MoreSatisfyingPhotos.com



治療への同調から抵抗への変化を「裏切られた」ように解釈してしまう気持ちの流れ方は、妙に否定せずに、きちんと自覚的していないといけない
治療側から患者さんへの陰性転移のきっかけになることがあるからだ。
治療者はこの罠に、案外引っかかりやすいと思っている。違うかなぁ。

このあたり、他の治療者って、どう思っているのかしらん。


自分は、こういった感じで、双極性障害の患者さんを診る時、気分高揚とか、注意の転導性あたりにポイントを置いて評価をしているつもり。
躁状態の評価のポイントを、それぞれの医療者がどこに置いているのか。相変わらず、気にかかる問題。



...Understood / Jason Hutchens





2013年6月27日木曜日

DVD「ヴァージニア」視聴終了:やい、コッポラ。二つ目からやり直しだよ


DVD「ヴァージニア」視聴終了。




何と言っても、監督は、フランシス・フォード・コッポラである。
痩せても枯れても、「ゴッドファーザー」、「地獄の黙示録」のフランシス・フォード・コッポラである。

映像の美しさは、さすがである。
多少、合成時の色調の合わせ方など気になる点はあるが、作品全体の雰囲気を損なうものではないし、むしろ意図的にそうしていると思える。
(そのあたりを気にしていたら、大林宣彦作品は見れません)

ジャンルとしては、ホラー映画に分類される作品。
主人公は、スティーブン・キングをデフォルメしたようなホラー小説家。彼が、アメリカのとある片田舎の町に訪れたところ、そこでは、少女が胸に杭を差し込まれて殺されるという猟奇的殺人が起こっていた……
というお話。



私、この映画は、ホラー作品というジャンルでは解釈していません。

構造から考えると、基本的には落語噺です、この映画。

酒飲みで、睡眠薬が無いと眠れなくて、借金も抱えたダメな男。いわゆる、落語の与太郎が、不思議な世界でおこす、恐怖あり、笑いあり、涙ありのドタバタの話。

落語に詳しくないけれど、多分、この映画のような噺は、古典落語の中にあるんじゃないかと思います。


ただ、哀しいかな、欧米人です。多分、落語知りません。
だから、この映画、落語の語り口としては、上手くありません。仕方ありません。
古典落語なんて、見たことないだろうし、見ていたとしても、きちんとコッポラに落語の面白さを説明できる人なんていないでしょうから。
それでも、一つの映画作品として成立しているのは、流石コッポラと言わざるを得ません。


誰か、フランシス・フォード・コッポラに、立川談志の落語を山のように聞かせて、その面白さを解説してくれないかな。
きっと、この映画、もっと面白くリメイクしてくれるのに……

ということで、40点とさせてもらいます。
二つ目あたりからやり直して、もっと修行しておいで>コッポラ





私が、落語だと思っている映画は、もう一つあります。


それが、これ。「ディア・ドクター」です。
これは、以前にも話をしたような気がする……